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得るとは?/ ディック

[ 414] tak shonai's "Today's Crack" (今日の一撃): 「的を得る」 は、間違いじゃない
[引用サイト]  http://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2006/03/__51fb.html

これ、昨今の日本語ブームではかなり有名になったテーゼだが、よく似た意味の二通りの表現として、一般的には 「的を射る」 と 「当を得る」 が正しいということになっている。
これで、これまで感じてきた 「的を射た○○」 という表現の 「ぎこちなさ」 の正体がつかめた気がする。表面的にはもっともらしいが、実はちょっとだけ中途半端なところが残っているのだ。
ただ、現状では、商業的原稿に 「的を得た」 と書いても、編集段階で 「的を射た」 に変えられてしまう可能性が高く、もしそのまま通ったとしても、「日本語を知らないヤツ」 とばかりに、読者からのツッコミが多発するだろう。うっとうしいことである。
今回は、想定外の逆方向のツッコミをいただいて、思いがけなくこんな考察ができた。ありがたいことである。 これを機に、「的を得た○○」 という表現へのステロタイプのツッコミは、不毛なものだと認識しておこう。
「的を射る/当を得る」 「汚名返上/名誉挽回」 という、日本語ブームにおける二大金科玉条は、まともに考えればこの程度のものである。多分、新聞、放送業界の一知半解的お約束が、世の中に広まっただけというのが真相ではなかろうか。
よく読んでもらえばばわかることなのだが、妙に引っかかる人が多いようなので、くどいようだが、念のため追記しておく。
しかし、現代では 「得る」 のもつ 「当たる」 の意味が薄れていて、奇異な言い回しと受け取られる可能性が高いため、「あまりお薦めできない」 というのは、当たり前すぎるので、くどくどとは書かなかった。
このエントリーへのコメントに関しては、もう付き合いきれないので、よほど意味のあるものを除いては、レスしないことにした。
ウエスタン・シリーズのヴァネッサである。縁あって、昨年の壁紙プレゼント企画でイラストを描いていただいた方に、キャラクターのデザインをお願いできることになった。他にもイラストはお願いしているので、完成したらまとめて掲載したいと思う。ステーション文庫は画面が小さいケータイで配信するせいか、読者が作品を読む場合、ひとつひとつの文字を追う傾向が強いように思う。無駄な文章は退屈を招きやすいし、誤字・誤用はすぐに指摘される。だからこそ入念にチェックもするし、展開や告ャにも気を配っているが、誤用の代賦iと捉えてい... [続きを読む]
たとえば「貴様(きさま)」とか、これだって元々は悪い言葉じゃないけど(明鏡辞典より)、上司にこれを言ったら大変なことになるし。
「正鵠」が「的」に変化したんだからそれにあわせて「得る」も「射る」に変化したんだろうし、それをわざわざ組み合わせると言うのもおかしな話。
「射る」 には、広義には的に当たることも含まれるでしょうが、狭義で言えば、当たらないこともあるわけです。
それ故に、「射て、当たること」 をより正確に言うためには、「得る」 という言葉の方が適切であり、古来、そのように言い習わしたもののようです。
繰り返しになりますが、私自身は 「的を射た○○」 という比喩的表現は、なんとなく居心地が悪いので、今後は使わないつもりです。
好きずき、自分で使う使わないは別問題として、「的を得る」 をことさらに否定したりつっこんだりするのは、ここまでわかった以上、無粋だなと。
そういうわけで、なかなか通りすがってくれないとおりすがりさんが、どっちを使おうが、私はつっこみません。
それと、普通とおりすがりってのは通りすがるヒトじゃなくて通りすがったヒトのことを指すんじゃないでしょうかねぇ。
言葉なんて変わってくもんなんだし、このままならそのうち360度回って、モトの意味っぽい「得る」に戻って行ったりして〜
先ほどの通り、正鵠を得るの「得る」と的を射たの「射た」はほぼ同等の意味(現在・過去の違いはあれど)と思っているので、この場合わざわざ「正しいとされる」言い回しを避け「間違ってはいない」という言い回しを選ぶというのはどうなんでしょう、ということ。
takさんは「得る」の方が「射る」よりも論理的に正しいという論拠によって、「的を得る」の方を使いたいというようなことを言っているけど、この二つが同等であれば、「正しいとされる」言い回しを使う方が「理に適っている」と思いますが?
記事本文での、汚名挽回に関しての説明がいまいち腑に落ちなかったのですが、上記のコメントで納得できました。ありがとうございます。
ところで、一度返上した汚名を「取り戻して」しまった時は、何て言えばいいんでしょうかね?やっぱり「汚名挽回」なんでしょうか。
>それと、普通とおりすがりってのは通りすがるヒトじゃなくて通りすがったヒトのことを指すんじゃないでしょうかねぇ。
>言葉なんて変わってくもんなんだし、このままならそのうち360度回って、モトの意味っぽい「得る」に戻って行ったりして〜
>先ほどの通り、正鵠を得るの「得る」と的を射たの「射た」はほぼ同等の意味(現在・過去の違いはあれど)と思っているので、この場合わざわざ「正しいとされる」言い回しを避け「間違ってはいない」という言い回しを選ぶというのはどうなんでしょう、ということ。
>takさんは「得る」の方が「射る」よりも論理的に正しいという論拠によって、「的を得る」の方を使いたいというようなことを言っているけど、この二つが同等であれば、「正しいとされる」言い回しを使う方が「理に適っている」と思いますが?
自分では両方使いたくないけれど、どちらかを使っている人に、ツッコミを入れるのは止めようということです。
「射る」という言葉は弓を引き矢を放つという意味だけでなく、「得る」と同様に当たるという意味がある(三省堂、大辞林)ので、射る=当たるとなると思います。
>「射る」という言葉は弓を引き矢を放つという意味だけでなく、「得る」と同様に当たるという意味がある(三省堂、大辞林)ので、射る=当たるとなると思います。
>慣用句として使われている方(射る)をツッコム事を不毛とするのは、問題がズレているのでは、ということ
とおっしゃっていますが、意味的にきちんと通じる表現を 「間違い」 というのでは、言葉の立つ瀬がありません。
>最初に「的を得る」が派生したからこそ、この”おかしな”表現が広く使われているのではないでしょうか。
ただし、「的を射る」 は、現代では意識されないほど、遠く離れてしまったとしても、元々は漢語由来なんじゃないかなあ。
通りすがりの人の、Time is money の例えについての解説が本人さんから出なかったので(そしてちょっと、どういう論旨に使うのか期待してたので)、物足りなくなって、つっかえつっかえ補完してみたのですが、何かしらイメージが伝わったなら幸いです。
漢語由来の表現から、使われるうちに『的を射る』に変遷しているので、この句について『射る』の部分だけ『得る』と先祖がえり(漢語がえり)させても以下略 という。
ぶっちゃけた話、的を射る/得るはどちらでも、殆ど誰とでもコミュニケーションできるし問題はないかなあ、と。
『汚名挽回』は何が言いたいのか良くわからなくなってしまうので、異なる解釈が可能でも(むしろ、異なる解釈が可能だからこそ)、気をつけて使って欲しいとは思います。
ストレートに「汚名挽回」を解釈すると3つ目になるのが厄介なんですよね、もしくは「汚名」が「劣勢」のように、状態を指す単語なら素直に新しい言葉として受け入れられたかもしれない、とか妄想して眠ります。オヤスミナサイ。
まあ、それは、使う人が 「別にオフィシャルな慣用句と認めてもらわんでもいい」 ということで、意地を通しているんでしょうね。
「どちらが正しいか」の議論はさておき、「なぜ「的を得る」の誤解(それも更に誤解?)が生じたのか」というプロセスが楽しかったです。
あながち間違いでもない事を人々が感じ取っているからこそ、「的を得る」がここまで広まっているのかもしれないと考えました。
言葉の変遷・混乱を見過ごせない人も多々ありましょうが、それも「言葉への興味の現れ」の一つなのだと感じております。
言葉は道具であり服装であると考えれば、それぞれ拘りが出て来るのは当然なのかもしれませんね。カラーバリエーションから選び取るように、言葉も○×式でなく、ゆとりを持って選びたいと思いました。
個人的には「的を射る」が好きです。根拠はないけれどピンポイントなムードがあり、「ヒュンッ!」という音が聞こえてきそうで、楽しいからです。
3月11日付の歯車さんのコメントのレスでも書きましたが、以下に、敢えて同じようなことを繰り返させて頂きます。
これも単なる 「好きずき」 でしょうが、捨てハンじみた名前で執拗に挑んでくる人に、内心むっとしたりするのは、私だけではないと思いますんで。
ただ、反論するならきちんと名乗れと、強制するわけではありません。その証拠に、私は捨てハンのコメントも無視しないで、いちいちレス付けてるし。
>個人的には「的を射る」が好きです。根拠はないけれどピンポイントなムードがあり、「ヒュンッ!」という音が聞こえてきそうで、楽しいからです。
>『汚名挽回』は何が言いたいのか良くわからなくなってしまうので、異なる解釈が可能でも(むしろ、異なる解釈が可能だからこそ)、気をつけて使って欲しいとは思います。
途中で、ココログの 30時間以上にわたるサーバ・メンテで、コメントが付けられない状態が続いたので、なおさらです。
・世の中、素直に解釈すると意味の通らない言葉はたくさんあるが、正しい用法とされているものがたくさんあります。これらについても、原理的解釈をした上で誤用か正当かといった主張をするかのような「イメージ」を受けます。
・tak氏は誤った言い回しを使うとつっこまれるという状態を、疎ましく思っているように読めます。今回出てきた言葉に限らず、あらゆる誤用と指摘についてです。
・今回の主張では、「個人的ぎこちなさ」という主観と、原理的解釈を理由にしているような「イメージ」を受けます。
・しかし、原理的意味とは無関係に、言葉の使われ方は変化していきますし、どちらかというと意味や用法が変化することに肯定的であるような「イメージ」を受けます。にもかかわらず原理的解釈で正当性を主張しているような「イメージ」を受けます。
・日本語ブーム?というのか分かりませんが、主に若者が誤った用法を用いたときに、それを指摘し正しい用法を教える流れがあります。これに反旗を翻し、どんな乱れた若者言葉だろうが意味が通じれば問題ない、原理的解釈を行えばかえってそのほうが正しいことだってある、だからあらゆる誤用に対して、それをいちいち指摘するな、という主張をしているような「イメージ」を受けます。
・あくまで詳細な言葉の起源や漢字の意味から現状の用法に物申すのか、それともフィーリングや実を取って用法の変化を許容するのか、よくわからないというような「イメージ」を受けます。
これ以上、非礼なことがあるようでしたら、あなたのIPA はコメント規制リストに入れさせていただきます。
いちゃもんつけながら反論ではないとか、気の狂ったことを平気で書きこめるような方に絡まれて。「反論ではないから反論は受け付けない、俺の言いたいことだけ聞いとけ」ってことなんですよ、こういうのが言いたいことは。
まあいちゃもん自体が、「両方俺は認めるよ、物分りいいから、うん。俺って革新的だしね。でもさ、できれば的を射るにしようよ。的を得るはほんとはおかしいんだよ。」
本題については、射るについても得るについても、一応の説明は付くし、また、元もとの成立についても諸説あるということでどっちもありですよね。最近の日本語ブームで正しい言葉を求めるというのはいいんですが、「本当に正しい言葉」などありはしないということを理解できない方が増殖してますね。
確かに契約書などに載せる言葉は、その意味用法が各々で違っていたらいけません。ですが、日常的な言葉は曖昧なところはそのままでいいでしょう。人間には理解力というのがあるんですから。
殊更に「正しい日本語」を押し付けようとする方には、この力が欠如してる傾向があります。僕には自分のその欠如を、言葉へ責任転嫁してるようにしか見えないんですよね。
繰り返しになりますが、元もとの言葉の成立について曖昧なものを正しいのはこれだと決め付けるのは、事務的には便利なことですが、文化としての言語に対しては相当な冒涜だと思います。曖昧なものは曖昧なものでいいんじゃないでしょうか。
でも、最近の流行小説の文体までは僕は許容できませんがwまあ程度問題なんですよね。結論はでないかもしれません。ですが、許容範囲を狭くしたい方は、その器が小さいという評価を受けざるを得ないかと。
非常に非礼な文で申し訳ありません。こういうものしか書けないもので。これ以上荒れても申し訳ないので、もちろん削除してもらってかまいませんが、削除したということだけは残してもらえますでしょうか。非常に勝手な書き込みですいません。
それと、私は「的を得る」はおかしいのではという主旨のことと「間違っているとは一言も言っていない」ということを言いました。また、「的を射るが正しい」とも言ってません。あくまで「正しいとされる」という言い方をしています。
さらには「両方認める」などとも言ってません。あくまでその他の人に的を射るという言い回しを「強制しない」のであって、「的を得るはおかしいと思う」というスタンスは一貫しています。これはダブルスタンダードではないと思うのですが?
そして何故(どこが)おかしいと感じるのかを説明しようとしたのが「金とマネー」であって、なぜその二つを対比するのかという理由が「どちらも外国語由来」、「『的を射た』といった場合の『射た』は『当てた』という意味にしか取れないので、moneyと金、得ると射る、は同等に扱えるはず」という説明の部分です。
元の漢語では「正鵠を得る」で、その得るにはこういう意味があり、更には論理的に正しく・・・ という内容に対して漢語と日本語をごちゃまぜにするのはおかしいと感じる、だから英語と日本語の例を出した、という流れなんですが。
それと「反論ではないから反論は受け付けない、俺の言いたいことだけ聞いとけ」、「両方俺は認めるよ、物分りいいから、うん。俺って革新的だしね。」はむしろtak氏に対する言葉だと思ったのですが。(もちろん文脈からはそうでないことが読み取れると補足しておきますよ。)
>それと、私は「的を得る」はおかしいのではという主旨のことと「間違っているとは一言も言っていない」ということを言いました。また、「的を射るが正しい」とも言ってません。あくまで「正しいとされる」という言い方をしています。
さらには「両方認める」などとも言ってません。あくまでその他の人に的を射るという言い回しを「強制しない」のであって、「的を得るはおかしいと思う」というスタンスは一貫しています。これはダブルスタンダードではないと思うのですが?
と、あなたの非常にまずいたとえ話を、見るに見かねて、親切にも、すこしでも意味が通じやすいように補完して言い換えてくれただけであり、決してご自身の意見を述べたわけではありません。
あなたは、自分の言葉を翻訳した通訳に向かって 「私は、あなたの考えに近いです」 と言うナンセンスな愚行を、衆目の前で演じています。(エクセルで言えば 「循環参照」 かな)
そのうえで、私は、あなたの言いたいことが、かなり的はずれではあるにしても、(親切な 「乗り遅れた辞書スキー」氏の顔を立てて、その補完を通じ、百歩譲って) 趣旨だけは理解した旨をコメントし、さらにそれを踏まえても、なお、やはり 「漢語由来」 だろうとコメントを述べています。
それを受けて、「乗り遅れた辞書スキー」氏も、その後のコメントで 「漢語由来」 であろうということを、ご自身の言葉で積極的に認めておられます。
というわけで、あなたの言いぐさは、「乗り遅れた辞書スキー」 氏にとっては、困惑的なものであるわけです。彼は、あなたのサイドに立っているわけではありません。
あなたのような人に、かくもとんちんかんな思い違いで勝手にすり寄られたら、先方はさぞ迷惑だろうと思います。
とんちんかんな喩えに執着して、いつまで経っても独りよがりなゴタクをゴチャゴチャ繰り返されても、はっきり言って、うっとうしいだけです。
>それと、私は「的を得る」はおかしいのではという主旨のことと「間違っているとは一言も言っていない」ということを言いました。
>あくまでその他の人に的を射るという言い回しを「強制しない」のであって、「的を得るはおかしいと思う」というスタンスは一貫しています。
「その他の人」 という表現は、小学生の絵日記じみているとでもいうか、とても可愛らしくて、ちょっと笑えますが、要するに、「自分以外の人」 という意味ですね。
「厳密な意味」 は違うとはいえ、言葉の機能論としては、このケースでは、ほぼ同じ結果を生じますから。このあたり、あなたの言いぐさは、ちょっと無邪気すぎます。
それに対して 「あくまで違う」 とか、「間違いじゃないけど、おかしい」 とか言い張られるのでしたら、どうぞ長生きしてください。
確かに、世の中には 「間違いじゃないけど、おかしい」 ことはたくさんありますが、このケースもそうだと言い張るのは、そろそろ、周囲をウンザリさせます。
強制するもしないも、そもそも、あなたにそんな権限はありませんよ。あなたの言いぐさは、かなり幼稚で独りよがりな印象を与えます。言葉には気を付けてください。
それに、世間的には既に 「強制」 に近い雰囲気があるので、あなたがそこで妙に肩肘張って力んでいる必要は、まったくありませんから。
あるいは、「どうそ、揚げ足取ってください。そのために、3回も繰り返しました」 と言っているようにさえ見えます。
とくに、2番目と 3番目の、単なる否定文/肯定文に疑問符をつけて、付加疑問文的に用いるという 「慣用的用法」 (?) は、あなたの個人的世界、あるいは、あなたのお仲間うちを別とすれば、一般には確立していません。
それでも、「意味は十分に通じるだろう。それに、ニュアンスとしては、こっちの方が表現されてるだろう! だから、『正しい』 とされなくても、俺は使ったんだ」 というなら、それはそれで構いません。言葉は生き物ですから。
あなたが、こうした疑問符の使い方をする気持ちも、違和感はありますが、わからないではありません。ですから、私は (違和感とは別に) その意味はくみ取ったし、あなたのお仲間うちなら、十分 「あり」 だろうと、認めるにやぶさかではありません。
ただ、私はあなたのお仲間うちではありませんから (あなたと仲間うちになるのは、願い下げです)、今後は使う相手には、お気を付け下さい。
私は 「あなた自身の自己矛盾」 として指摘したのですから、あなた自身が解決すればいいことです。ここから先は、私の知ったことじゃありません。
「それとこれは別」 ということでも、一向に構いません。ただ、これ以上、こちらに低次元なナンセンスを持ち込まれませんよう。私も、今週からは忙しくなりますし、これ以上、付き合っている暇はありません。
以後、あなたのコメントは (あったとしても) 無視します。これ以上馬鹿馬鹿しいようでしたら、削除します。
最後に、あなたのために、あえてきついことを付け加えますが、あなた、自分の日本語センスがかなりニブイということをきちんと認識しておいた方がいいです。そうしないと、また、どっかで恥かきます。
古い話を持ち出すのであれば、「正鵠を得る/失する」自体が何に由来してるか調べて書いた方がよいと思いますよ。
上の方で「的を射ても中るとは限らない(だから中ったことを限定的に表現できる得るは良い)」というコメントがありますが、大きな違和感を感じます。何故なら「弓を射ても、的に中るとは限らない」ですが、「的を射た」とした場合は「的に中った」と解釈するのが当然だと思うからです。「的を射よ」と言われればそれは「的に矢を命中させなさい」という意味ですし「中るとは限らない」という解釈はおかしいと感じます。
ところで「的を得る」は「的を射る」と「当を得る」のミクスチャーだというのが通説のようですが、本当にそうでしょうか?この説は「なぜ"的を得る"という表現がこうも広まっているのだろう?」ということを「後から」考えたときに、狭い範囲で犯人捜しをしたからそう言われているだけではないでしょうか?
「確かにそれは的を得ているね」と発言するとき、頭の中では「なるほど!」という「理解」が生じています。相手の考えをゲットした瞬間です。
私は個人的には、もし「的を得る」という言葉が数百年前からあるのであれば「的を射る+当を得る=的を得る」の可能性もあると思いますが、もし「的を得る」がここ100年以内に生まれた新しい言葉であるなら「的を射る+要領を得る=的を得る」なのではないか?と考えています。というのは「当を得る」という言葉は文語としての要素が大きく、ミクスチャーが起こるほどの日常的な親近感を感じてないからです(普段使わない言葉でミクスチャーは起こらない)。ここに(上で出た"貴様"のような)時代時代で変化する言葉の音に対する感じ方が「的を射る」という音よりも、「的を得る」という音を選んだんだと思います。
何はともあれ、仰るとおり原理主義的な部分を感じますし、もし「的を射る/得る」共にこの世になかったとしても、言葉の組合せ的に「的」と「得る」はおかしくないと思います。「的を射るが元々の表現だ」というならまだしも、「的を射るが正しい!的を得るは間違い!」という主張には変化を認めない(ら抜き言葉は江戸時代からあるのに、未だにら抜き言葉を"一切"認めない)国語学者のような違和感を覚えます。
※「正鵠を得る→的を得る」という変化説にも異を唱えたいですね。そんなに昔の人は「正鵠を得たり!」なんて、ミクスチャーが起こるほど日常語として使ってたんですかね?
「このエントリーへのコメントに関しては、もう付き合いきれないので、よほど意味のあるものを除いては、レスしないことにした」と断りましたが、これについては、誤解を避けるためにもレスをつけます。
>ところで「的を得る」は「的を射る」と「当を得る」のミクスチャーだというのが通説のようですが、本当にそうでしょうか?
>※「正鵠を得る→的を得る」という変化説にも異を唱えたいですね。そんなに昔の人は「正鵠を得たり!」なんて、ミクスチャーが起こるほど日常語として使ってたんですかね?
汚名挽回も間違いではないということには驚きましたが、こちらは「汚名返上」という四字熟語が成立しているので、返上を使うことが望ましいって気がします。
「汚名を巻き戻す」って、何か「なかったことにする」ようなニュアンスがあって、言われたらムカつきそうですから(笑)
或いは「言葉は変化するもの」と捉えている方は、一時期「エムケイファイブ」とか「チョベリガンブロン」とか抵抗なく使い回していたんですか?
>「汚名を巻き戻す」って、何か「なかったことにする」ようなニュアンスがあって、言われたらムカつきそうですから(笑)
いくら自論と違っていたり、矛盾が生じたりしていたとしても、「低次元」とか、「あなたと仲間うちになりたくない」とか言うものじゃないと思います。
貴方の年齢がわからないので想像で書きますが、ブログ上で慣用句や文法についてここまで語っているんですから、もういい大人でしょう?
貴方のレスを見ていると、子供が間違いを指摘され、認めたくないから権限を乱用しているようにしか見えません(レスの停止、IP規制等)
自分に不都合なレスを「意味が無い」等といってレスしないのなら、始めからコメントお断り等書いておけばいいじゃないですか。
初めはなるべく穏やかに対応していましたが、的はずれなことを(しかも捨てハンで)執拗に書かれたので、最終的に、私としては珍しいことですが、意識して叩きのめしにかからせていただきました。
意識して書いた、と言いますが、どうせ意識して書くのならあんな風に書く事もなかったのでは・・・と俺は思います。
確かに、捨てハンでの書き込みは良いとは言えませんが、例え捨てハンとはいえ、貴方の書いた文章を読んで、それに対して意見しているのですから、最後まできちんとした対応をするのはその文章を書いた人の責任だと思います。(まったく関係のない事で突っかかってくるなら対応なんてしなくてもいいですが)
これでは、takさんが3月13日のエントリーに書いている「喧嘩の度に、職員室に呼び出してねちねちと説教をする教師」と同じではないでしょうか?
とおりすがりさんのレスを見て貴方はウンザリしたのもわかりますが、それに対する貴方のレスを見てウンザリした人もいるという事を知ってください。
もし、とおりすがりさんに対するレスが「相手を必要以上に傷つけないために、ちょうどいい頃合いを見て毅然と怒ってみせる」を実行した例ならば、怒るという事を履き違えている気がします。(どちらかと言えば、あのレスは見下す、という表現の方が合っている気がします)
確かに、あのコメントは、私としても気持ちのいいものではありません。ただ、書いてしまった以上、その責任をも取るという意味で、残してあります。
「的を射た」とは、獲物に矢は当たったかもしれないけど、急所を捉えていなければ、走って逃げていきそうです。
何故ならこちらは慣用句ではなく,何かを的に例えた比喩表現だから(表現としては間違ってないことを追記しておく)
で、なんだかんだありますが、私としては、何が正しくて何が間違いかというよりも、要するに、「的を得た○○」という表現に対して、不毛なツッコミをする習慣 (ステロタイプの極みに思われます) を廃しましょうということに止めたいのでありますね。
統計的にいえば「的を得る」を使用する人のほうが多いと思います。自分は「的を射る」は見聞きしたことが一度もなく(友達に聴くまでは)、又ここのコメントを見ても大半の人がそうなのだと感じました。データとしてはぜんぜん足りないですが。
自分が思うに「的を射る」が使われていたが音便化により替わった。そのときに字も適当なものに替わったんじゃないかな。言語学をちょこっとかじった程度なんでこれくらいしか言えませんがwww
辞書にも「的を射る」で載ってるわけだしそれなりの根拠があるんだろう。字面が不自然だから、じゃあまりにも暴力的だし。
「的を得る」が日本語として意味を成さないといわれるが、なら「的を射る」の意味が「的確に要点をとらえる(goo辞書より)」となるのも理解できない。もちろん慣用句ですからそこは理解してます、あくまで例えです。
ようは「的」「得る」をどうとらえるかだと思います。意味としても↑に書いたとおりで、弓を的に当てるじゃない。「的を得る」のほうが言葉から意味を読み取りやすいとさえ感じますよ、俺は。
それに全国的に多数の人が使用してるのなら(憶測です)その言葉は間違ってないと思います。間違ってるとしてもそれは以前の文法と違うということだと思います。
「的を射る」と「的を得る」、どちらを使うか使わないかということより、なぜこの話題がこんなに人気があるのだろう、と興味をもちました。ちょっと長くなりますが、考えてみます。
思うに、責任(というか原因)のひとつは、辞書的な意味合いで正統とされる「的を射る」という言葉が、出来が悪いことにあるのではないでしょうか。意見や表現が話の核心を突いている、といったときに使われる言葉ですが、「的を射る」はその情景を表すには曖昧すぎるのです。
この言葉からは、2通りの意味が取れます。「的を狙って矢を放つ」と、「的に矢を当てる」。それだけで十分曖昧なのですが、さらにどちらからも、肝心の「的の中心を射抜く(話の核心を突く)」というドンピシャのイメージが伝わってきません。矢を放つだけでは当たるかどうかわからないし、矢を当てるといっても的のどこに当てるかはっきりしません。
しかも、言葉の成立の経緯とか出典が明らかじゃない。どの立場の方も、「的」なんだから「射る」ということになったんだろうなあ…、程度の暗黙の了解というか、グレーゾーンをかかえたまま話が進むので、やっぱり何か釈然としないものが残ります。
では、翻って「的を得る」はどうかというと、本来はド真ん中に当てるという意味で、しかも歴史的な裏づけもあるんだけど、その話を知らない人には、なんとなく、例えば弓の御前試合があって、殿様が勝者に「よしよし。褒美に的(そのもの)をつかわす。持って帰れ」「ありがたき幸せ!」といったような動画が無意識に浮かんだりするので、「でも的(そのもの)をもらってもなあ…」と(私なんかは)ついつい思ってしまうのです。つまり、別の意味に取られやすい。
これは、いつのまにか、的の示す内容が変わってきているからだと思います。「正鵠」が的に読み替えられたころは、的=的の中心(位置)だったけれど、いまでは的=的全体(モノ)。的の意味にゆらぎがなかったならば、少なくとも「的を得る」にいまほどの違和感は生じなかったはずです。
こうした曖昧さが積み重ねられた結果、いざ言葉を使う段になっていくつもの選択肢が生じ(使わないことも含めて)、しかもどの態度も正しい(間違いじゃない)という事態を招き、この場所が賑わっているのではないかと思います。
どちらかが完璧な表現であれば、みんなそっちを使うでしょう。人気の秘密は、「正統なのに出来が悪い」、あるいは「甲乙つけがたい」というところでしょうか。
というわけで、私はこの言葉、自分では使いたくないし、どうしても使いたければ、「的を射る」 の方が、余計なツッコミを避けることができるという意味で、人にはお勧めしたいと思っている程度のことであります。
例えば「姑息」だって、本来は一時しのぎって意味だけど、今じゃ「ずるい」って意味で用いられることの方が多い。
んで、「的〜」を見てみると、「的を得る」を誤用と認識している人が大多数なのだから、的を得るは現時点じゃ誤用だ。
>んで、「的〜」を見てみると、「的を得る」を誤用と認識している人が大多数なのだから、的を得るは現時点じゃ誤用だ。
その論理に従うのなら、あなたのいう 「誤用」 が世間一般でこれだけ使われているという事実は、どう解釈したらいいのでしょう。
なお、「姑息」 に関しては、当ブログの以下のエントリーで少し論じています。大体、あなたの説に賛成です。
この問題に関して言えば、私の 「自説」 と呼べるようなものは、何度もくどいほど繰り返しているように、「的を得る」 を誤用と決めつけて、いちいちツッコミを入れるのは止めようよという程度のものです。
「猫に小判」と「豚に真珠」をごちゃまぜにして、「豚に小判」や「猫に真珠」でも論理的には間違いではない、っていうのと同レベル。
どうにかコメントも全て読み終え、自分の感想とほぼ同じ意見を述べている人も何人かいるので、長文を書くのは控えますね。
何度も何度も何度も何度も繰り返しているように、ここでは 「慣用句として」 正しいかどうかなんてことを問題にしているのではありません。
これだけ多くの人が現実に使っている 「誤用」 に対して、「ら抜き言葉」 を始め、かなり怪しい日本語を使い放題の人たちまでが、鬼の首を取ったようにつっこみたがる現象は、かなりうっとうしいねと言っているわけです。
で、私自身は何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返しているように、「的を得る」 という用法はオススメしません。
しかし、確信犯的に使っている人は、慣用句としてどうのこうのなんてのは、「そんなの関係ねえ」 とばかり使っているので、それはそれで、「御勝手に」 ということです。
先日、談話している中で「的を得る」を使ったところ友人の一人に訂正され、せっかく弾んでいた会話が急に気まずいものになりました。
後日、その友人は他の友人の「的を得る」も訂正していたのですが、その様子は「最近知った事実を自慢したがっている子供」のようでもありました。
こういう風に関係のないことで話の腰を折られるのは非常に不愉快ですよね。だから使うなら「正鵠を得る」あたりがベターなのかなぁ、とも思いました。
>先日、談話している中で「的を得る」を使ったところ友人の一人に訂正され、せっかく弾んでいた会話が急に気まずいものになりました。
確かに、文章では 「的を射た○○」 というのはありますが、話し言葉にすると、どうも生理的に気持ち悪いんですよね。
話し言葉に限れば、「的を得る」 が 90%以上じゃないかなあ。書き言葉で 「的を射る」 を使う人も、話し言葉だとなんとなく抵抗があるらしくて、使いたがらないような気がします。
これだけ 「言葉は生き物で、変わっていくのが当たり前」 と言われていて、それでも 「的を射る」 に固執するというのは、どうもわかりません。

 

[ 415] 面接官から見た、面接で好印象を得るポイント - novtan別館
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20080211/p2

こんなの会社がベンチャーか中小か大企業か、主に求める職種が技術者なのか、営業なのか、事務作業者なのか、によって異なるので、あまり普遍的に語ることは難しいんだけど、それでもダメポイントはある程度共通していると思います。
これはまあ常識的なんだけど、その後の説明がイマイチ。特に「4)平均に最も近い行動様式が最も常識的な態度であると類推することができる」なんてのはなんか無難な人ばっかとりそうですよね。実際には求めている常識は「面接官にとっての常識」でしかなく、意外と偏っているものですが。あと「ひたすら「Why?」を連発するのです。」ってのもバカを落とすのにはそれなりに有効な手段ですが、口先だけの人間は意外と対応されてしまいます。
例えば、人数を確保しなければならない職種の場合に、平均的な力を持った人ばかりを入社させるのは、一見正しい戦略に見えますが、これはダメ。常に平均的なパワーしかでないということになりますし、某法則によればその中の二割は働きませんから、実際には毎年会社の能力が前年の8割減衰し続けていくことになります。
だから、全体として、平均的になるような採用のしかたが必要になります。なので、ある部分が突出していた場合に、他がちょっとね、となっても半ば賭けに近い形で採用する場合もあります。むしろ、面接官が「この長所を是非生かしたい」と思った場合、欠点は度外視される傾向もあります。よっぽどお堅い大企業でなければね。ただし、キャラが被ったら、基礎体力(能力って意味ね)があるほうが採用されることが多いです。
うちは面接は一回だけで、50分くらいやります。結構な時間があるので、自分は何者であるということが出てこない人は持ちません。こちらも、悲しいかな次から次へ志望者が現れるような大企業ではありませんので、できるだけその人の引き出しを開けてみようと努力するのですが、取っ手がないと空きもしません。まず、開けてみたくなるような引き出しを提示できれば、第一段階としては合格。逆に言うと、言われたことだけにハイハイ言っているだけだとそういう取っ掛かりを見つけることが出来ないので終了です。何でもいいから自分の特徴を示すことが出来ればと思うのですが…
あとはSI企業なので、論理的思考能力が最低限あるか、というところが重視されます。例えば、ゼミに入っているのであれば、自分が何に興味を持って入って、どんなことをしているか、を他人にわかるように説明できるか、等。そして、質問は多分に誘導的なので、意図を少しでも汲むことが出来るかは大事です。
で、あと一番大事なのは、何かを大切に出来る人かどうか。会社としては出来るだけ長く勤めて欲しいものですから、何でも簡単に放り投げてしまう人はあまり好ましくありません。趣味でも何でもいいから何か一つのことをやり続けることができる、好きでいられる、ということは非常に大事だと思います。それが他人に理解できるようなものでなくても、情熱が伝わればよいのです。
ちなみに、嘘をつくと、大抵はバレます。もっとも、バレていることを殊更に指摘するようなことはありませんが、実際にはバレていると思ってください。ただし、嘘、というか、本当でないことが必ずしも悪いとは限りません。底が割れるような嘘はもちろんNGですが、自分さえも騙すことの出来るある意味演出的な嘘や、心底そう思ってなくても、場を読み取った、論理的な判断に基づく発言なんかは場合によっては好感度の元にもなります。黙ってしまうより、わかりませんという正直な気持ちの吐露(これもあまりに低レベルなものだとNG対象ですが)や、上手く取り繕うことの方が能力を感じさせることがあります。
まあ、これも僕の面接官としての個人的な感覚に過ぎません。こと面接に関しては、最低限の礼儀作法が身についていれば、半ば運に近いものがあります。テクニックとして普遍的に対応できるのは、精々面接に望むときの姿勢(業界に対する研究成果や、思いを語れるかどうか等)くらいであり、後は自分が何者であるかをいかに出していくか、その自分とその企業がマッチしているか、が成否に繋がります。
ただ、いろんな企業を訪問してもどこにも引っかからないのであれば、ここで上げたようなダメポイントを沢山満たしている可能性があります。特に、自分がやっていることを説明できないのは(個人的にですが)ものすごくマイナスです。そのあたりをちゃんと意識する、というのが面接だけではなく、社会人としてキャリアを積むにあたって大事なことなのではないでしょうか。
一応補足しておくと、僕は人事部ではありません。が、現場代表として良く面接には参加しています(もちろん決定権付き)。ので、たまたま面接に行ったら僕が出てくることもあるわけですね。

 

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