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戯言とは?/ ディック

[ 445] 戯れ言
[引用サイト]  http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/zaregoto.html

あんなに笑ったのは外山演説以来ですが、それによって新番組の勢いすらかき消してしまうこの番組の勢いには感服してしまいます。
その辺の構成はこの作品があくまでもゲームのストーリーを補完するという位置にある事を示してるような気がします…。
1話ごとにヒロインが変わり、また短い時間で一エピソードを(特に驚きがないという意味で)無難にまとめてますし、
渡辺真由美絵も可愛いので安定はしてますが、1つのストーリー物として見るとやや弱いかなぁとも思います。
動の部分、作画が凄いのは言うまでもないことですが、やはりレイアウトがいちいち素敵にカッコ良すぎます。
こちらのキャプ参照ですが、このヨーコのお尻ナメの構図。朝から子供には目の毒かもしれません。もっとやって下さい。
エロい歌ちゃんも帰ってきましたし、スタッフも変わらずに安定しているのでまた1年間楽しませて頂こうと思います。
これがエスカレートすれば化けるかもしれません。とりあえずアニメロビーの実写パートは何とかなりませんでしょうか。
割りと素直に原作がアニメ化されている感じですが、ちょっと若本氏のナレーションが存在感を放ちすぎかも。
例えば2回目の「ハヤテのごとく 完」と出た後は、すぐエンディングに入ってそれからツッコミを入れるとか…。
銀魂を見た後だとそういう想像もしてしまいますが、その辺は話が続けば色々見られるかもと期待しつつ視聴継続。
ご都合主義でなければ設定を変えてもいいと、こともあろうにGONZOに鬼頭莫宏氏が発言してたそうですが、
鬼頭氏らしいキャラクターの残酷さ、痛さがところどころに描かれてて、恐らくまだジャブの段階ですがギブ寸前です。
とにかくこの中毒性のあるOP…畑亜貴氏の作詞と神前氏の曲、山本寛監督の演出が相乗効果を生み出していてかなり癖になります。
逆に言えば真っ先に目に入るOPが殆ど掻っ攫っていて、その分本編が大人しめに見えてしまうのかもしれません…。
トマトしるこを好んだりフォアグラおにぎりとか、女の子ごとに食べ物属性があるあたりはああ、久弥氏なんだなぁとか妙に感動。
あと雨の中、顔を落として表情を見せないようにする事で、本当は雨なのか涙なのかという事を想像させる部分も良いと思いました。
ファンの期待をずんどこに叩き落したキャラデザ&声優変更、あと何故かジャンルも変更という仕打ちに絶望した人多数。
春香を軸にしたキャラクターの魅せ方、携帯端末やよく分からない光ってるキーホルダー等の小道具、アイドルの発進等々
それをヒロインがただ上京するというシンプルな骨子に肉付けされている形で上手く見せられてて、物凄く良かったです。
ロボットバトルはカッコいいのですが、こういうシーンを見れば見るほどアイマスである必要性を感じなくなってくるのが難儀なところです。
というのは、普通ならここで葛藤がありそうなもので、これから数話はロボに乗るか乗らないか等々の苦悩が続きそうなものですが、
そういった苦悩を引きずらずあっさりとスルーしてしまうのは今風とも言えるかもしれないと思ったり思わなかったり。
しかしロボット=アイドルというのはぶっ飛びました。さしずめアイドルになります、ではなくアイドルに乗りますというか。
しかしそうなると今度はなのは達の描写とのバランスが気になるところですが、そこは監督の腕に期待したいかと。
確かに各所で言われてる通りこれまでの積み重ねがないので、2人の友情というものが見えにくい部分はありますが、
救護活動後、ベッドに寝そべる3人娘。かなりエロいです。こちらはこちらで邪な二次創作的想像力が働きます。
なのはの身体を心配するフェイト。これも各所の指摘通り、なのはに何らかのトラブルが襲い掛かる事を暗示してるように思えます。
素人考えですが、今後は恐らくなのはにこれまでにないようなピンチが訪れて、それを助けるために機動六課が立ち上がる…みたいな。
まず主人公が素手でモンスターを倒せるくらい強い。事前に話を聞いててもビジュアルを見るとやはり笑ってしまいました。
ヒロインもおかしいです。逃げるんだ、といわれてちょっとだけ、ちょっとだけ葛藤してバビューンと逃げる様は、
更に自分から受け取って私の心…といっておきながら次のシーンで「その剣は?」と聞く辺りは誰もが画面にツッコんだ事かと思います。
Tony絵が結構再現されてますし、何より女の子が可愛くかけてるというのはそれだけで視聴したくなります。
しかし絵コンテのレベルでかもしれませんが、話の序盤からバストアップのカットが連続で出るのはちょっと…。
モンスターと呉羽の立ち位置が同じラインにあってここで呉羽の表情がアップになれば緊迫感も増すのですが、
カメラがロングショットのまま固定されてるので滑稽に感じたりもしました…(異世界でモンスターに追われる二人もカップヌードルの昔のCMみたいで)。
「ヤマトナデシコ七変化」の後枠。マガジン作品のアニメ化に関しては色々不安に思うところもありつつチェック。
始めは好きな子に誘われて入ったけどいつの間にか自転車の魅力に憑り付かれていたみたいな展開が予想できますが、
まなびの後枠。ファフナースタッフが集結という事で、原案・シリーズ構成の冲方丁氏のシュヴァリエでも見せた手腕に期待。
エイジは真空でも活動できるし誰が敵で誰が味方か、現時点ではまだよくはっきりしませんが、今後も期待したいと思います。
ここまでくると女の子達に囲まれる主人公というシチュをこれほどバリエーション豊かに生み出せる事に感動します。
女の子と男の子。ボーイミーツガール。照れる女の子が凄いかみちゅっぽいです。さすがロリメーター藪野浩二。
キャラクターデザインにクセがあります。鼻の穴と下唇が描かれていて、アニメ的というよりややリアル路線。
いくらでもやりようはある気がするんですが、本筋からすればそれほど重要なことではないかもしれませんが、
女の子は非常に可愛らしいです。思い返せば路線は違うけどまりたんの前からこういうコンセプトは存在したんだなぁとか思ったり思ったり。
というかこの妖精の飛ぶ音がうる星やつらのそれと同じくピュルルルル〜という音で非常に懐かしく感じてしまいました。
セイントビーストも息が長いですね…。公式の放送スケジュールで確認しましたがテレビ大阪また新しい枠?
追われてるシーンとか、緊迫感を出そうと思えばキャラに寄りますが、そうはせずにカメラを固定したシーンが多いです。
キャラクターは…女性が何か妙に色っぽくかかれてますし、ドールと呼ばれる銀髪少女の存在も気になります。
で舞台は2025年。あんまり期待しないで見てみましたが小野大輔!何か今期は声を聞く機会がかなり多いです。
今期はREIDEENとかリメイクが目に入りますが、このジーグに関しては永井豪先生のテイストがそのまま残ってます。
原作は未読ですがバトル要素を前面に押し出してるという事で、肝心のバトル部分がショボくならない事を祈りつつ。
気になるところはかりんが独りの時…に反応するところがもうちょっと極端に敏感に反応させても良かったかもと思いました。
取りあえず「カレイドスター」スタッフというだけで見る動機十分。サトジュンの監修ってどこまで作品に絡んでるんだろ。
シナリオに関しては西園悟氏なのでそこは信頼しつつも絵が…物凄く不安です…と思っていたら、不安が的中。
また凄い時間に…NHKとトムスというと「雪の女王」が思い浮かびますがこれに関しても堅実な作品に仕上がりそう。
NHKもBS2で総力特集してましたが、力を入れてプッシュするだけあって本編は凄い事になっていました。
第1話目は、流石に作画が良かったです。本当なら次回からもずっとこのクオリティが続けばいいのですが…。
マガジン作品のアニメ化というとあまりいい印象はないのですがアフタヌーン作品のアニメ化は安定してる感が(夢使いは微妙)。
BSデジタルでの放送もないのかな?原作は読んでないけど脚本には原作者が全員参加という事でかなり気合が入ってる模様。
個人的に真下監督の作品とは肌が合わないのですが、何故かNOIR、ヤンマーニといった美少女ガンアクションは好きです。

 

[ 446] 琥珀色の戯言
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/fujipon/

何一つ確かなもののない時代を懸命に生きようとした二人の男女を描き、60年代〜70年代にヒットした青春文学の大ベストセラー
1955年、共産党第6回全国協議会の決定で山村工作隊は解体されることとなった。私たちはいったい何を信じたらいいのだろうか――「六全協」のあとの虚無感の漂う時代の中で、出会い、別れ、闘争、裏切り、死を経験しながらも懸命に生きる男女を描き、60〜70年代の若者のバイブルとなった青春文学の傑作。 解説・大石 静
この『されどわれらが日々――』という作品は、僕にとってはずっと「学生運動とかをやっていた自分の父親くらいの『イデオロギーに酔って暴走してしまった世代』の愛読書」であり、「時代の遺物」だと思っていました。
そして、そういうタイトルのベストセラーがあったことくらいを知識として持っていればいいと考えていたのですが、書店でこの文庫の新装版を見かけ、そんなに分厚くないことを確認すると、ちょっと読んでみたくなったんですよね。
自分で読み終えて感じたのは、この作品は、けっして「全共闘世代のバイブル」なんかではない、ということでした。
この作品を読みながら僕がずっと思い出していたのは、夏目漱石の『こころ』で、たぶん、著者もそれを意識していたのではないかと。誰かが自ら命を絶ったり、決定的に傷つけられたりして、その理由が主人公たちへの「手紙」で語られる、という構造そのものもそうですし、死んでいったものたち、あるいは、生き続けているものたちが抱えている「欠落」と、彼らをみる他人の目には著しいギャップがあるのだ、というところも。
いや、僕としては、「東大出てるエリートさんたちが、『苦悩ごっこ』しやがって!」みたいな気分にもなるんですよこれを読んでいると。お前らは、ありもしない「敵」や「虚無」を自分のなかに勝手に作り上げて、それを恐れている自分に酔っているだけなんじゃないか、って。
でも、それはまさに、現在の僕も抱えている「普遍的な憂鬱」みたいなものでもあり、だからこそ、この物語に出てくるエリートたちの苦悩に、僕はちょっと反発してしまう面もあるのです。この作品が発表されたのは1964年であり、時代背景は現在と明らかに違いそうですし、「学生運動からの挫折が描かれた作品である」という先入観が強いのですが、僕がこれを読んで感じたのは、半世紀近くたっても、人間、とくに若者が悩むことなんて、そんなに変わりばえしないんだな、ということだったんですよね。
でも、そうした遊びの続いたある日、その積木遊びがもとで、あなたが私を泣かせてしまったことがあったのを、覚えていらっしゃいますか。あの日、その遊びに熟達した私たちは、二人とも殆ど自分たちの背丈に近い高さまで、積木を重ね競っていました。そして二人は、その上に更に高く重ねようと一生懸命になっていました。
けれども、実を言うと、あの時の私には、どちらが高く積み上げるか、あるいは、どこまで高く積み上がるかなどは、どうでもいいことでした。少なくとも一番大事なことではありませんでした。幼い私には、あなたと一緒に遊べさえすれば、積木を段々高く積み上げて行くのも面白ければ、それがあっという間に崩れてしまうのも、胸がわくわくするほど楽しく感じられたのでした。普段東京の家で、仲の良い近所の友だちも年の近い兄弟もいず、一人ぼっちだった私には、一つ違いのあなたと遊べることが、何よりも楽しかったのです。私は、積木が一つ載ったといっては威張ってみせ、ぐらりと揺れたと言っては声を上げて喜んでいました。
が、最後の一つをとうとう載せそこなって、折角積み上げた私の塔ががらがらっと崩れてしまった時です。はしゃいだ私は、思わず、「大地震だ!」と叫んで、手を打ち飛び上がり、大仰に驚いてみせました。と、
私はびっくりしました。何故おこられるのか、判らなかったのです。だって、二人でこんなに楽しく遊んでいるのに、おこられる理由なんか、何もないはずでした。それだのに、あなたは本当に真剣なこわい顔をして、私をにらんでいるのです。
私はそれでも、すぐには、私がさわいだのであなたの塔が倒れかかり、それであなたが怒ったのだということが、よく呑み込めませんでした。もし、あなたの塔も倒れたら、それこそ二人で「大地震だ、大地震だ」とさわげばいいのにと思いました。けれども、あなたは、そんな私に背をむけて、また積木を一つ手にとると、もう随分高く積み上がった積木の塔の上に、それをそっと、実にそおっと、実に緊張した様子で載せようとしていました。それは、一緒に遊んでいる私のことなど、もうすっかり忘れてしまっているのでした。あなたは一遍積木を重ねはじめたら、自分がどれだけ高くそれを積み上げられるか、ただそのことだけに夢中になって、最初の、一番肝心な、私と一緒に遊んでいるのだということなど、思い出そうともしないのです。私はそれに気がつくと急に悲しくなってしまい、思わずわあーと泣き出してしまいました。そして、
僕はいまでも、この「塔を積み上げる側」であったり、「塔を滅茶苦茶にこわしてしまう側」だったりするのではないかな、と考えずにはいられません。
同じことをやっている、同じベクトルを向いているはずなのに、拭い去れない疎外感に支配されてしまう夜もある。
でも、そういう歴史が、この本の持つ「普遍性」を曇らせ、「今の時代には読む価値がない本」だとみなされているのだとしたら、それはとても勿体無いことだと僕は思います。
まず、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。人間の死というのは理不尽なものではあるけれども、こんな形での突然の死というのは、最も「あってほしくないこと」です。そして、怪我をされた方々が少しでも早く快復されますように。
僕は昨夜のニュース番組でこの事件に関する報道を観ていて驚いたというか、気が滅入ってしまったのです。
それは、この事件そのものの救いようのなさに対するものが大部分だったのですが、その番組中で、「通行人によって撮影された現場の写真」というのがたくさん流されていたことは、僕の憂鬱な気持ちを助長しました。
もともと人間とはそういうもので、携帯カメラという「持ち歩ける記録装置」が身近になったのが最近だっただけ、なのかもしれませんけど。
もし自分が現場にいたら……と想像してみるのですが、たぶん僕は逃げ惑っているばかりで、何もできなかっただろうと思われます。
でも、犯人が捕まったら、こういう「歴史的な事件の現場に居合わせたこと」に対する高揚感、そして、「それを誰かに自分の経験として話したい衝動」を抑えられずに、「犯人の写真」を転送してくれるように求めた可能性はあるかもな、という気はするんですよね。
その一方で、「被害者が血を流して倒れている場面」とかを撮影した人の気持ちはよくわからない。いや、「これをメディアに売ろう!」とか「これをブログで公開しよう!」というようなのは、わからなくはないんだけど、いまの僕の道徳観では、「犯人の写真はともかく、被害者や被害現場の写真を撮影するのはいけないこと」なんですよね。
もし僕が被害者の遺族や友人だったら、「自分の大切な人の理不尽な死が、興味本位で取り扱われること」や「事件で死んだ人というイメージでしか世間でみられなくなってしまうこと」は、とても悔しく、悲しいことだと思うから。
それでも、もし僕が歴史的大事件の現場に出くわすようなことがあったら、自分の功名心を抑えられず、「撮ってしまう」可能性は否定できません。そういう「発信する側になりたいという誘惑」って、すごく怖い物のような気もするけれど。
この秋葉原の事件の場合、倒れている被害者を見つけたら、「やるべきこと」は、まず、「救護する」か「自分の身の安全のために逃げる」かのどちらかでしょう。ところがそこで、「助けも逃げもせずに現場にとどまって記録する」という行動をとった人が少なからずいたとうのは、驚くべきことです。まあ、写真撮ったあとすぐに救護したり逃げたりした人もいたんでしょうが、人間の「記録したい」という欲求は、そんなにまで強いものなのか。
「こういうときに現場や被害者の写真を撮るのは人間の自然な感覚だし、しょうがない」というような考えかたが「常識」として主張されてしまうのは怖いです。自分が被害に遭ったときのことを考えれば「救護するか、逃げるのが『常識』」であってほしい。自分が刺されて呻いている場面を、周りの人が遠巻きにして携帯カメラでカシャカシャやっているのを想像するのは、本当にいたたまれないです。自分の身内がそんなふうに曝されていたら、僕はその「善意の撮影者」たちをずっと恨むと思います。どうして、助けようとしてくれなかったんだ?せめて、晒し者にするのをやめてくれなかったんだ?って。
残念なことに、この事件への「観客」の反応は、あの犯人が「凶行の場所に秋葉原を選んだ目的」を見事に達成してしまったように思われます。だからといって、「報道規制」されるようなものでもないだろうけど、これに影響されて、同じようなことをやろうとする人間が今後出てくる可能性は高そうです。
もう文庫になったのか、と思いつつ書店でページをめくっていたら、【文庫化に際し第10章「それでも日本サッカーのために」加筆!】というのを見つけ、加筆部分だけでも読もうと思い、買ってしまいました。
僕は一度読んだ本を読み返すことはほとんどないのですけど(読みたい本の数に比べて、僕の余命は短すぎるので)、この本は、第1章を読み始めたらやめられなくなり、結局、文庫書き下ろしの第10章まで一度に読んでしまったんですよね。
ここ数年のスポーツ・ノンフィクションのなかで珠玉の作品だと思います。少なくとも、『オシムの言葉』の単行本を読んでから今回の文庫版を読むまでの間には、僕にとってこれ以上のスポーツ・ノンフィクション(というより、「伝記」と言うべきかもしれませんね)は出てきませんでした。
これを読むと、イビツァ・オシムというすばらしい人間が日本を愛し、代表監督を引き受けてくれたことに素直に感謝してしまいますし、だからこそ、「オシム・ジャパン」がオシム監督の急病という形で頓挫してしまったことが、僕には残念でなりません。
今回あらためてこの本を読んで感じたのは、オシム監督というのは、「与えられた環境のなかで、より良いサッカーをするチームを作る」ことに最高の情熱を傾ける人なのだけれども、「最強のチームを率いる」あるいは、「何がなんでもこの試合に勝つ」ということを志向する人ではなかったのだな、ということでもあるのです。オシム監督は、ヒディング監督のような「魔術師」でもなければ、モウリーリョ監督のような「カリスマ」でもなく、本質的には、「そんなにタレントにも資金にも恵まれていないチームで自由にタクトをふるえてこそ良い仕事ができる監督」なのかもしれません。口の悪さも考え合わせると、楽天・野村監督がオシム監督に近いキャラクターなのではないかと。
僕はアジアカップでもモドカシイ試合が続いていたオシム・ジャパンに対して、「オシムでも、こんなものなのか?」と、ちょっと失望していたのですが、この本を読むと、オシム・ジャパンの試合内容は確実に進歩しており、選手たちも「手ごたえ」を感じつつあったようです。
岡田ジャパンは、「アジア予選は突破できる可能性が高いけれども、ワールドカップ本戦ではグループリーグで3連敗してしまうようなチーム」で、オシム・ジャパンというのは、「アジア予選であっさり負けてしまうかもしれないけれども、ワールドカップで世界を少しだけ驚かすことができた可能性もあるチーム」だったのではないかと。
今の日本代表の試合を観ていると、「たぶん、このままではワールドカップ本戦に出場できるだけのチームなんだろうな」という、ちょっと悲しい気分になるのです。もちろん、出られないより出られたほうがいいんですけど……
(ちなみに、いちばん感動したのは、オシム監督が戦争の影響で代表監督を辞した夜のスタッフ・選手たちだけとの祝勝会のシーンでした。あの場面は何度読んでも泣かずにはいられません)
「監督に、最後の佐藤のシュートが残念でしたね、と聞いたんだよ。そうしたら、『シュートは外れる時もある。それよりもあの時間帯に、ボランチがあそこまで走っていたことをなぜ褒めてあげないのか』と言われたよ」
全身が痺れた。この人はどこまでも自分たちを見ていてくれる。その上、選手を横一線で見ているのだ。
オシムは「羽生はそのポジションにもっといい選手がいても、どこかで使いたくなる選手だ」と言った。そう言わしめるようになっていったには当然ながら、深い過程があった。走るサッカーの象徴のような羽生はこう見ていた。
「監督は厳しいけど誰よりも選手のことを考えてくれているんです。それが求心力になっていると思います。僕も最初は練習でミスをすると、いきなり『お前だけ走ってこい!』と、開始早々にひとりだけ罰走させられて、何だよと思っていたんですよ……」
「監督はよくトップ下の選手が簡単に5メートル、10メートルのパスをミスしていたら、サッカーにならないと言うんです。その意味では、僕がそこ(トップ下)をやるのなら、ミスは絶対に犯しちゃいけないんですよね。練習でひとつのメニューが始まって『やれ』と言われた時に、最初はゆっくり入っちゃったりしますよね。様子を見ながら、みたいなパスを出して、たまたま受ける側もそういう気持ちで入っていると、多少ズレるじゃなですか。それで僕のパスミスみたいになる。そういうのが許されないんです。1年目からすごく言われました。すぐに『お前、走って来い』。散々繰り返されたので、僕はもう練習の1本目のパスから集中しよう、と思うようになったし、数メートルという短いパスでも、しっかり通そうという気持ちになりましたね。
なんで1本のパスで、俺だけこんなに走らされなきゃいけないのかと当初は悔しかったんですが、それがあるから今があるんですよ」
リーグ戦優勝2回、カップ戦優勝3回、チャンピオンズリーグ出場3回。就任以来、オーストリアの中位クラブだったグラーツを飛躍的に成長させたオシムは何故このチームを去らなくてはならなかったのか? クラブのハネス・カルトウニック会長との確執が原因とされている。
「中立的な立場からモノを言おう」とコメントをくれた地元紙クローネン・ツアイソンのカリンガー記者によれば、発端は会長が、常勝を求め始めたことによるという。チームは生き物であり、世代交代も含めて調子には波があることを前提とするオシムの考えは理解されなかった。
チャンピオンズリーグ出場という歓喜から時は経ち、やがて溝は深まって行った。メディアに対し、会長が故郷ボスニアについて中傷的な発言をしたことをオシムは許せなかった。またオシムに対する給料の不払いが表面化する。クラブの経済事情を知るオシムは和解を望んだが、クラブ側は高圧的な態度に出たため、やむなく裁判に。一説によると、不払い金額は15万ユーロだったが、弁護士料なども含んで37万ユーロに膨らんだという。裁判には勝ったが、クラブの経済事情を考え、オシムは分割払いを認めた。カリンガーは言う。
「彼はカネが欲しくて裁判をしたんじゃない。その証拠に支払われたものはすべて寄付しているんだ」。クラブを去った今も、関係者の尊敬を集めており、スタジアムの道具係の人たちは、オシム夫妻が日本にいる間、グラーツの自宅の周りを自発的にパトロールしているという。
「オシム・ジャパン」をワールドカップで見ることはできなかったけれど、オシムさんはまだまだ「やる気」みたいです。本当に、こうしてまた「オシムの言葉」を聞くことができて嬉しい。
こういう厳しい試合で、「絶対に勝たなければならない」はずのオマーン代表よりも、日本代表のほうが最後まで足が止まらなかったのは、「オシム監督の教え」が生きていたおかげではないか、って。
川口能活は言う。「監督は先発を発表するときに出せない選手に必ず謝るんです。本当は全部出したいんだ、と。すごく僕たちを大切に考えてくれる。何より選手を見るときに、すごくいい表情をされるんです」そう、その笑顔をまた見てみたい。
日本人は、オシム監督本人が第一線から退いてしまった今だからこそ、これまでの「オシムの言葉」を大切にしていくべきだと僕は思うのです。
ただ、今日に関しては「東京コース+マイル+一叩きの効果+前残り傾向のなか岩田騎手の位置取りがよかった」と好条件が重なったためで、宝塚記念に出てきても、そんなに過信はできないのではないかな(と、自分に言い聞かせておきます)。
もうひとつ言えるのは、ウオッカ以外のマイル路線の馬たちは、みんな「どんぐりの背比べ」だということ。
終わってみれば、なんでウオッカからグッドババ、ブリッシュラックは買ってたのにアルマダ買ってなかったんだ……(パドックではちょっと太く見えたけど他の激ヤセ2頭よりはマシだった。前日発売で買ったからしょうがないけど)というのと、今の東京競馬場のG1は(というか、ここ数年はずっとそうなんだけど)、とにかく内めの枠の先行馬じゃないと勝負にならない(と思ったからアルマダ買わなかったんですが、16番ゲートから出てあそこにつけてるホワイト騎手は巧いよねやっぱり)、ということでまたまたまたまた外してしまいました。
今日はスーパーホーネットとウオッカで決まり!だと思ってけっこう奮発したんですけどねえ……スーパーホーネット、まさかこんなに見せ場のない競馬になってしまうとは……オークス以来、馬券バイオリズムは下がりっぱなしですよまったく。
僕が最近考えているのは、結局のところ、ブログを続けるというのは割に合わない行為なんじゃないか、ということなんですよ。dankogaiさんがネガティブコメントに対して寛容なのは、要するに、彼は「ブログでお金を稼いでいる(=仕事だと認識している)」からだと思うのです。
でも、多くのブロガーは(たぶん、「アルファブロガー」と呼ばれる人たちでさえも)、金銭的に言えば、「ブログをやるのは損」なはずです。趣味あるいは道楽の世界。
「有名税だ」とか「そのくらい我慢するのが大人の対応」だという意見って多いけど、ブロガーからすれば、「有名であることによる収入なんて前々無いのに、有名税ばっかり徴収されてしまう状態」なんですよね。いくら「他人から認められる欲求」が満たされるとしても、それだけでどのくらい続けられるのだろうか。
それに、芸能人への誹謗中傷の手紙などに比べると、ネット上での誹謗中傷っていうのは、あまりに(誹謗中傷する側にとって)「手軽・低コストで本人に直接届きやすい」という傾向がありそうです。
2008/06/08 01:39 誹謗中傷されたくなければ、無難な記事を書けばよい。最初から。自分の言いたい放題に物を言うと、往々にして付け入る隙を与えがち。要はトレードオフなんですよ。例え信者>アンチの数であっても、誹謗中傷事態を止めることはできない。防ぐには、ブログ設立当初からアンチ(による{文字でもって罵倒したいという意思})が0になることに努めるしかない。まあそのようなブログは大抵信者も0同然なんですけどね
世の中をよくしていくために、「正しい」議論をしていこう!ってそれは大いにけっこうですけど、でもその議論、実は誰も聞いてなかったりなんかしてません?ちょっと、エンターテイメント性に欠けてない?そこで本書でおすすめするのは四角四面な議論や論理が性にあわない日本人におあつらえ向きの「つっこみ力」。謎の戯作者パオロ・マッツァリーノによる本邦初の「つっこみ力」講演(公演)会、おせんにキャラメルほおばりながら、どうぞ最後までお楽しみくださいませ。
これまでに、パオロ・マッツァリーノさんの著作を読んだことがない人への入門篇としては、読みやすいし内容にもそこそこ意外性があり、なかなか良い本なのではないかと思います。
ところで、念のため確認しときますけど、メディアリテラシーって知ってます? あ、いえ、なにもみなさんが知ったかぶりしてると疑ってるわけではないんですが。
解説者の説明をまとめると、イギリス生まれでカナダ育ちのしろものだそうです。要するに、メディア――テレビや新聞、雑誌、広告が伝える内容には、制作側の意図による偏りが含まれるから、鵜呑みにせず、制作者の意図をきちんと見抜いて判断しましょうね、ということなんですけど、ほら、それができたからって、どうなのよ、って感じは否めないでしょ?
メディアリテラシーという言葉を日本で耳にするようになったのは、90年代後半のことでした。ですから、すでに10年近くが経過しておりまして、近頃では常識だとおっしゃるかたもいらっしゃいます。
でも、ホントにそうですか? 私は「常識」といわれると余計に疑ってしまうタチなもんでして。なにしろ常識なんてものは、人の数だけあるんです。常識をひとつに絞れると思ってたら、そういうあなたが、いちばん非常識です。
新聞などでしばしば取り上げられるので、ご存じの方も多いでしょうけど、国立国語研究所というところが、外来語定着度調査というものをやってます。16歳以上の人を対象に、いろいろな外国語の意味を知ってるか、聞いたことがあるか、使ったことがあるかを訊ねる調査です。メディアリテラシーは、2003年の調査で取り上げられていますので、その結果をお見せしましょう。
あら。やっぱり常識じゃなかったみたいですよ。逆にいえば、メディアリテラシーなんて見たことも聞いたこともないという人が9割近くもいたのです。90年代後半に登場して、このていたらく。この調査時点からすでに3年あまりの月日がたっていますが(引用者註・この本が出版されたのは2007年2月)、その間に大幅な認知率の向上があったようには思えません。
ちなみに、「マニフェスト」という言葉は、平成15年の総選挙で民主党が使い、連日のようにマスコミの選挙報道で流されたおかげで、認知率が12%から36%に跳ね上がりました。これくらい集中的に取り上げられてブームにならないかぎり、耳慣れないカタカナ言葉を一般市民にまで浸透させるのは難しいのです。
こんな感じで、著者が実際に目と耳と足を使って集めたデータ(著者が自身で個人個人に「直撃」したものではなく、既出の統計的な資料)を分析し、新たな切り口で紹介している本なんですよね。
このデータにしても、メディアでは、「マニフェスト」という言葉の大幅な認知率向上が報道されることはあっても「メディア・リテラシー」という言葉が全然浸透していない、ということが伝えられることはまずありえませんが、実際は「調べればそういうデータは残っている」のです。
その手の言葉で最近いちばん目立つのが「ライフハック」というやつで、これは日本語に訳すと「効率的な仕事のやりかた」「仕事術」というニュアンスの言葉のようです。でも、わざわざ日本人が、カタカナで「ライフハック」って書くことにそんなに意味があるのでしょうか?
このあいだの「アドホック的」の話もそうなのですが、そういう横文字って、アクティブなネットユーザーが思っているよりもはるかに、一般には浸透していないのではないかと。仲間内での会話ではそういう言葉のほうがわかりやすい場合があるのは理解できるのですが、WEBの「専門家ではない人にも読んでもらうため」の文章内で使うには、ちょっと不親切だと思いませんか?
専門家っていうのは、長くやっているうちに「どこまでが専門用語なのか?」というのが、往々にしてよくわからなくなりがちなものではあるのだけれども。
この本、「素人にもわかりやすく、面白くしなければ価値がない」という主張のもとに書かれていて、僕にも耳が痛いところが多々ありました。
まあ、専門家からすると、「とは言っても、『肝臓ってどこにあるの?』『肝臓って2つあるんじゃないの?』っていう患者さんに、わかりやすく、しかも正確にインターフェロン治療の話をするというのは至難」ではあるんですよね。1週間合宿して集中講義するわけにもいかないし。「素人」側も、最低限の知識は持っていてほしいというのは、やっぱり傲慢なのかな……
あらすじ: 母校の中学で働く教師、神野(大泉洋)のもとに、かつての同級生だと名乗る探偵(佐々木蔵之介)が訪ねてくる。探偵は、神野の幼なじみで今は一流企業に勤める木村(堺雅人)の行方を追っていた。心ならずも木村探しに巻き込まれるうちに神野の知らない木村の姿が明らかになり、事態は誰もが予想しない展開に向かっていく。(シネマトゥデイ)
何を書いてもネタバレになりそうな作品なので、観た印象みたいな話しか書けないのですが、「あっと驚く予想外の展開」というよりは、「なんだかわけがわからないまま話が進んでいき、最後にスッと腑に落ちる」という感じの映画です。細かい演出も効いているし、大泉洋さん、佐々木蔵之介さん、堺雅人さんという出演者もいい感じ。こんなにうまくいくわけないだろう……と思っていたら、そこがまた伏線だったりするんですよねこれが。
ちょっと「中だるみ」してしまったような気がしましたし、「本当に『予想外の展開』だったか?」と問われれば、「予想してはいなかったけど、そんなに驚きもしなかった」と答えます。「ああ巧いなあ」とは思うけど「驚いたなあ」という感じじゃない。
「とてもよくできたドラマ」だと思いますが、僕は「せっかく映画館で観るのだったら、圧倒的なスペクタクルを味わいたい」ので、「いい映画だけど、DVDになってからレンタルで観てもそんなに変わらなかったかも」というのが率直な感想です。
個人的には、この作品の魅力って、「意外性のある展開」よりも、「学生時代の『同級生』という人間関係へのセンチメンタリズムが刺激されること」だと思います。あいつとしばらく連絡とってないなあ、とか、観終えて考えてしまいました。

 

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