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例会とは?/ レイク

[ 490] 例会
[引用サイト]  http://homepage2.nifty.com/ydeguchi/colloq/meetings_j.html

心理学の主要な課題の一つは、心理プロセスに関するモデルの構築、すなわち、ある介入の下である心理属性にどのような変化が生じるのか、様々な心理属性同士がどのような関係にあるのかといったことを記述し説明するモデルを構築することである。そのようなモデルを構築するためには、様々な心理属性の変化を経験的に確かめる必要がある。そのために、心理学者は、実験や調査において、参加者の心理属性の大きさを心理尺度によって測定する。このとき、心理属性の大きさの測定という目的を達成するためには、適切な心理尺度を用いなければならない。心理尺度の適切性の評価基準の一つに妥当性(validity)がある。おおざっぱに言えば、ある尺度が意図した属性を測定しているとき、その尺度は妥当である(valid)といわれる。また、尺度が妥当であることを示すことは、妥当性確認(validation)と呼ばれる。尺度が妥当であるとは正確にはどのような事態を指すのか、どんな手続きによって妥当性確認をすればよいのかといった問題は、心理学の中で半世紀以上にわたって盛んに論じられてきたが、科学哲学においてはこれまでほとんど論じられてこなかった。また、心理学者による既存の議論は、いくつかの問題を持つように思われる。
そこで、本発表では、妥当性を確認するための手続きに焦点を当て、ある手続きを用いることで尺度の妥当性が確認されることをどのように保証すればよいのか、という問題を考察する。本発表の構成は次の通りである。まず、測定の表現理論を参照しつつ、「心理測定」や「妥当性」といった本発表での議論に必要な用語の定義を行い、その上で本発表の主題を述べる。次に、現在の心理学における、妥当性確認手続きに関する標準的な枠組を紹介し、その難点を指摘する。最後に、科学哲学者のBogenとWoodwardのデータと現象に関する議論を心理測定に応用し、難点の一部を解決する。
パスカルは計算機の考案と製作に1643年頃から取り組み、「決定的回心」を経験する1954年まで、この発明の普及に力を入れていた。これほど長年にわたる努力が傾注された計算機という発明は、パスカルにとって、その天才が生んだ余技のようなものではない。ヨーロッパ全体では、パスカルより20年ほど前にドイツのシッカルトが計算機を考案しているが、いずれにせよ、生前のパスカルの名を高めた理由として彼の計算機があることは間違いない。パスカルの姉ジルベルト・ペリエは、弟が「精神の中だけにしか存在しない学問を機械にしてしまった」と言う。この機械は、同じくジルベルトによれば、「あらゆる計算を、推理の必要もなく、まったく確実に行う」ものである。確かに、数学は人間の知性的な営みの中心をなすものの一つであり、たとえばデカルトにおいては、数学は、「直観」と「演繹」をその確実性の源泉とする知性の働きを最もよく示すものと考えられた。したがって、数学の一部にすぎないとはいえ、計算を機械が行うということは画期的なことと受け止められたであろう。しかしながら、計算機の発明以前には計算が常に人間の頭の中だけで(つまり精神においてだけ)行われてきたのではない。置石や計算表などの計算に対する補助手段が多く用いられてきたのである。では、パスカルの計算機はどのような意味で「精神」の中の学問を「機械」に置き換えているといえるのだろうか。今回の発表では、この問題について考えてみたい。
(1)当の概念を有することによって思考が行うような推論の幾つかを実行ないし認識する傾向にあることと、
そしてフォーダーは、このBCPが循環をもたらすが故に偽であると主張し、概念プラグマティズムに代わるものとしてデカルト的な概念観――概念Cを有しているとは、CであるものについてCと考えることができるということである――を提示した。この議論をめぐってはC.ピーコックらから反論が提起され、雑誌Mind & Language上でひとつの論争を形成した。
本発表では、概念プラグマティズムをめぐる一連の論争を整理した上で、概念を有するとはどういうことかについて考察を行ってゆく。そこでの主要な論点としては、(1)BCPがある種のknowing-howであるとするフォーダーの見解は、知識がもつ多様な側面を無視したものであるように思われること、(2)BCPが循環に陥っているというフォーダーの指摘は一見もっともらしいが、そこには概念のもつ認識論的側面についての誤解があるように思われること、等を論じる予定である。
現在主義とは、現在だけが存在するというテーゼを支柱とする時間論における一つの立場である。この立場の下では、過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しないとされる。ところで、現在主義にとっての課題の一つとして、時間の非対称性はいかに扱われるべきかという問題がある。時間に関する日常的な比喩のなかには、たとえば、「未来は開かれているが、過去はそうではない」とか、「時間は過去から未来へと流れている」といった、過去と未来の非対称性を示唆する表現が散見される。ところが、純粋な現在主義に基づけば、過去と未来はともに存在しないという意味において、いかなる存在論的差異もないのであるから、一見すると、これらの比喩表現に存在論的根拠はない、ということになる。少なくとも、現在主義それ自体のうちには、時間の非対称性を示すものは何も見出されないように思われるのである。
上の問題意識を出発点として、本論において私は、現在主義に非対称性を導入する可能性を探りたいと思う。本論が取り組む時間の非対称性の問題とは形而上学的なものであり、この点を明確にするためにまず、時間内部の非対称性の問題に触れこれと区別し、当取り組みの意図と意義を簡単に述べる。次いで、現在主義の下で実行可能な非対称性の原理を提示し、これを説明する。さらに、過去と未来の非対称性を存在論の基礎におく、いわゆる「オープン・フューチャー理論」の立場を比較検討し、この立場に対して本論が提示する現在主義の利点を明らかにする。結果、現在主義に時間の非対称性を実装することは可能であるばかりでなく、非対称的な原理を組み込む時制理論のうち現在主義こそが維持可能な立場であることが示される。
*普段と開催曜日と時間帯が少し異なりますので、ご注意ください。また、できるだけ柏端氏の著書をお読みの上、ご参加のほどお願いいたします。
「ヒルベルトとクロネカーの間の数学的存在の概念的ステータスの違いについて〜数学史の哲学の観点から〜」
具体的な議論としては、クロネカーの不定元(indeterminee)とヒルベルトの理想元(idealen)に付与される数学的存在のステータスを対象とすることにする。そのために、まずそれらの概念が登場する数学史の文脈を把握することが必要であるので、発表には数学史の具体的な素描も含まれることになる。しかしこの議論の目的は、彼らの技術的な問題解決の背景に潜む哲学的関心を、彼らの技術的方法と数学史的文脈の両面から明らかにすることにある。ここでは、哲学あるいは認識論に属するであろう数学的存在についての議論を数学史の中で具体化しなおすことで、それらを単なる言葉上の問題ではない仕方で具体的に分析可能にすることが目指される。
直観的思考とシンボル的思考は何であるかという問いは、哲学史の中で重要であった。その二種類の思考は排他的であるのか、あるいは関係するとしたらどのように関係するのか。この問題を考察するに当たり、数学における幾何学と代数学の間の関係を分析してみるのは興味深い。
現代幾何学は、空間に対する、幾何学的図形に対する素朴な直観を放棄し、シンボリックな表現としての代数的形式を使用していることは確かである。換言すると、現代、幾何学的対象は代数的対象を媒介として再構築されている。しかし、このことは幾何学が代数学的なシンボリックな体系に完全に還元されてしまうということを意味していない。幾何学特有の性格は残り、幾何学的直観は数学の中で重要な役割を担い続けている。それゆえ、現代の数学者、特に幾何学者はしばしば、幾何学的思考を理解という概念と結び付けている。たとえば、M. F. Atiyahは、幾何学が一種の視覚的・直観的な思考であると考えている。また、R. Thomは、幾何学化するとは理解することであると書いている。
さらに、このような数学における考察は、自然科学、特に物理学の構築とも深く関わりあっている。Atiyahによれば、物理学は理論的なものと実験的なものの上に成立しているが、理論における諸概念は広い意味で幾何学的であり、測定器具を用いる実験は代数学的計算に似ている。また、Thomは、幾何学的でなく代数学的にのみ構築された量子力学に満足しなかった。
本発表においては、幾何学と代数学の間の干渉を分析することによって、科学における直観的思考とシンボル的思考の干渉を考察することにする。さらに、幾何学的思考と理解の概念の間の関係を調べることは、シンボル体系を重要視する科学哲学と、一種の「視覚」としての直観を重要視する現象学の間の新たな関係を開きうるのではなかろうか。
本発表では,反事実的条件法による因果関係の特徴づけに関する難問のひとつである,遅いプレエンプションの問題を,語用論的な考察によって回避することを提案する.
たとえば,太郎と花子が空き瓶にむかって石を投げているとする.花子の方が先に石を投げて瓶を割ったとする.すると,太郎の投げた石が空き瓶のあった位置に達したとしても瓶を割ることができない.さて,直観的には,瓶が割れた原因は「花子が石を投げたから」であろう.しかし,これを反事実条件法で考えようとしてもそのままではうまくいかない.なぜなら,もし花子が石を投げなかったとしても,太郎の投げた石が瓶を割るであろうから,「花子が石を投げなかったならば瓶は割れなかったであろう」という反事実条件文は偽であるからだ.
本発表では,このような「遅いプレエンプション」の問題を語用論的考察によって回避することを提案する.すなわち,原因を求める者の関心がどこにあるかによって,結果とされる事象をどのように表現するか,真偽を判断すべき反事実条件文はどのようなものになるのか,などが変化するということを考慮に入れてこの問題の解決を目指すのである.
たとえばいま,関心が「瓶が割れたのは投石によるものか,それとも風かなにかによって立てられていた瓶が倒れ,そのときの衝撃で割れたのか」というところにあるならば,そもそも花子が石を投げたのか,太郎が石を投げたのかを区別する必要はない.それゆえ,考えるべき反事実条件法は「誰かが石を投げなかったならば,瓶は割れなかったであろう」というものであり,これは(いま考えられている状況では)真である.さらに,投石によって瓶が割れたことを質問者が知っていて,さらに太郎と花子が実際に石を投げたことも知っているならば,質問者の関心は,「実際に瓶を割ったのは太郎なのか,花子なのか」ということになるだろう.そうすると,考えるべき反事実的条件文は,瓶を割った石を指しながら「もし花子が"この"石を投げなかったならば,"この"石によって瓶が割れることはなかったであろう」となり,この反事実条件文は,(いま考えている状況では)真なので,瓶が割れた原因は「花子の投石」ということになる.このように,結果とされる出来事の範囲をどこまで絞るか,もしくは広げるか,どのような反事実的状況を考慮するかは質問者の関心に依存するのである.
うそつきパラドクスの現代的な研究には、大きく「意味論的アプローチ」と「文脈鋭敏性アプローチ」がある。クリプキの不動点理論、グプタ・ベルナップの真理の改訂理論を例とする意味論的アプローチは、タルスキの言語階層によるパラドクス解決への不満から、自身の真理述語を含む形式言語を構成し、それによってパラドクスの解決・理解を試みる。しかし、その言語は強化されたうそつきに見舞われ結局は言語階層を免れず、それゆえパラドクスの解決としては不完全だと批判される。
他方、バージ、バーワイズ・エチメンディ、シモンズらの文脈鋭敏性アプローチは、真理は実はなんらかの文脈依存パラメータを持ち、その見落としがパラドクシカルな現象として認識されるにすぎないと主張する。そして単純なうそつきではなく強化されたうそつきに動機付けられその推論実践の合理化を目指す点でも、意味論的アプローチと好対照をなす。
このような二つのアプローチの対立と各々の方法論的妥当性の検討を視野に入れながら、本発表では、改訂理論とバーワイズらの状況意味論的分析に依拠して、真理の病理的な例と非病理的な例を考察する。
状況意味論的分析は、パラドクスの原因論としてはまさに文脈鋭敏的である一方、その文脈鋭敏性が状況意味論によって分析される点では意味論的アプローチと見なすこともでき、改訂理論との比較に際しては形式的分析の面で有用性がある。具体的には、うそつきパラドクスと強化されたうそつきに加えて、循環的だが直観的に妥当と思われそれゆえ真理の非病理的な使用例となる「グプタのパズル」を取り上げ、(1)各論者が真理概念に基本性質として帰属させる基底性(クリプキ)、スーパーヴィニエンス(グプタ)などが各パラドクスではどのように破られるのか、(2)他方で状況意味論がパラドクスの分析から抽出する真理や言語使用の文脈鋭敏性は、非病理的な使用でも実際に作用しているのかを検討する。
題目: 「AIによる問題解決のための二つのアプローチ――帰納論理プログラミングと遺伝的アルゴリズム」
真理のデフレ論(deflationary theory of truth)とは、真理概念が認識論的・存在論的に基礎づけられるべき本性をもたない「収縮的な」概念として理解できることを主張する一群の見解である。それゆえ、この見解のもとでの真理の特徴づけは、真理を実質的性質(対応・整合性・有用性など)に還元する伝統的な説明(対応説・整合説・プラグマティズムなど)に対立するものである。この見解には様々なヴァリアントがあるが、標準的には、真理の本性が意味論的上昇(および下降)のための装置として機能することに尽くされる、という見解がとられる。
発表では、上述のデフレ論的な真理概念の理解のもつ含意、およびその問題点を検討する。とりわけ、「真理概念(および真理条件概念)は意味概念の説明において中心的な役割を果たさない」というデフレ論の主要な主張のひとつに焦点をあて、その妥当性を考察する。
これらの特徴を持つ哲学の基礎となるのは、カヴァイエスが「概念の哲学」のプログラムと名付けた記号の哲学である。この記号の哲学は、その後、グランジェやノゲスを経て、現在発展中であるが、今回は、それの出発点であるカヴァイエスの記号の哲学を集中的に紹介する。
カヴァイエスの記号の哲学は、ヒルベルトの形式主義の研究からスタートする。そして、ゲーデルの不完全性定理の結果を受けた後、それを独自のやり方によって修正する。したがって、紹介すべきは、カヴァイエスがヒルベルトの形式主義から受け継いだ記号の哲学と、その形式主義をその記号の哲学によってどのように修正したかということと、その修正された形式主義が後の記号の哲学のなかでどのように展開していくかという3点である。
当日の発表では、この3点(主に最初の2点)の紹介を通して、この未だよく知られていない哲学プログラムの全貌とその可能性を少しでも明らかにできればと思う。
知覚経験にまつわる問題を扱う哲学的議論では、知覚経験を表象の一種と見なした上で、その表象内容の特質について論じられることが多い(その内容は非概念的であるのか、クオリアはその内容にスーパーヴィーンするのか、等)。 だが、知覚経験が表象の一種であるというのは決して自明ではない。というのも、一見したところ、我々は知覚経験においてさまざまな事物を直接経験するのであり、その事物を表象するものが間に介在するようには見えないからである。そして実際、知覚経験を表象とは見なさない哲学者もいる(Campbell、Martin、Brewer、Travis)。しかし、私の考えでは、知覚経験はやはり本質的に表象的な現象である。そのことについて議論したいと思う。
解釈学的現象学と科学哲学。この二つは、一見結びつけるのが困難なようにみえる。一方で「説明」に基づいた自然科学と区別された感情移入的な「理解」に基づいた精神科学の方法論としてのディルタイ的な解釈学、そして、現象学的還元によってすべての既成の学問を括弧に入れることを要求し、絶対的意識あるいは生活世界の記述を求めるフッサールのイデーンにおけるような観念論的現象学を思い起こすかもしれない。もう一方で、20世紀の論理実証主義に始まり、論理学及び言語哲学に方法論を求める英米系科学哲学を思い起こすかもしれない。そのような解釈学、現象学、及び科学哲学の理解においては、確かに解釈学的現象学と科学哲学を結びつけるのは、困難にみえる。
しかしながら、現代、解釈学的現象学と科学哲学のコミュニケーションを可能にする条件がそろいつつあるようにも見える。英米の科学哲学において、歴史的視点がクーンやトゥールミンらによって取り入れられたことは周知の事実であり、解釈学的現象学において歴史哲学の考察は不可欠である。また、現在、英米の科学哲学者のなかには、ハンソンによって導入された科学実験の「理論負荷」という概念を解釈学的循環として理解している科学哲学研究者もいる。これらの事実から、言語と歴史に対する哲学的考察が解釈学的現象学と科学哲学の橋渡しになることは、十分に見て取れる。しかしながら、言語分析哲学とクーンのパラダイム論的歴史観に大きく影響された英米科学哲学と、解釈学的現象学の間には、言語と歴史に対する見方の大きな隔たりがあるということも忘れてはならないであろう。この隔たりが、今日、この二つの哲学の交流を困難にしているといっても過言ではない。それでは、解釈学的現象学と科学哲学のコミュニケーションを考察するにあたり、我々はいかなる方法をとるべきであろうか。ひとつは、分析哲学と現象学の共通問題意識、すなわち、言語の意味論に関してさかのぼろうとする試みがある。フッサール現象学をフレーゲ言語哲学を通して理解するという試みは、英米圏においてここ数十年来盛んに行われてきた。歴史哲学に関しても、科学哲学が科学史をどう使うかという方法論上の問題も含めて大きな問題を残している。
今回は、科学哲学と科学史が常に不可分にあるという伝統を持つフランス哲学に依拠しつつ、解釈学的現象学視点からの自然科学、ことに物理科学の理解を試みたい。ここでは、二つの哲学的潮流に依拠したい。一方で、本稿は、テキストの解釈学的現象学を発展させ、その視点から歴史学の哲学的理解や他の哲学的諸問題との対決を試みたリクールの哲学に依拠する。一見、リクールの哲学は、科学哲学と関係がないように見受けられる。事実、彼は自然科学について何も言及していない。しかしながら、彼の哲学的立場からの分析的言語哲学、及び人文諸科学との積極的対話は、彼の哲学が解釈学的現象学と自然科学哲学の対話を開く可能性を秘めているように思われる。他方で、本稿は、カヴァイエス(J. Cavailles)によって導入され、ヴィユマン(J. Vuillemin)及びグランジェ(G. -G. Granger)に引き継がれた「概念の哲学」に依拠する。カヴァイエスによって「意識の哲学」と対立視された「概念の哲学」は、フランス独自の科学哲学を展開する。この哲学は、フッサールの観念論的現象学の拒否に始まるといってよいが、カント的超越論的批判哲学、弁証哲学、言語哲学、並びに科学史との対話により、解釈学的現象学に道を開いている。
の3つであろう.そしてこれらは対立するものではなく,どれも科学的説明の持つ特徴を言い表すことが出来ている.
つまり,説明には,「因果関係による説明」と「統合化による説明」の二種類があり,これらはどちらかがどちらかに還元できるものではない. さらに,説明は,「なぜ疑問」に対する答えであるといえるが,どの答えが適切かというのは,なぜ疑問の発せられた背景によるのである.
しかし,「自然現象の本質」とはなにか.それは上記論文に示されたように,理論的研究とは,既存のモデルもしくは理論で記述できない現象を,モデルもしくは理論を修正することによって記述することであるので,「新たに説明された現象」の本質とは,既存のモデルや理論の修正された箇所にあるといえるのである.このときに,その現象の「原因」がわからなかったのならば,「因果関係による説明」となり,「原因と結果の関係」はわかっている(現象論的法則)のだが,なぜそのような関係が成り立つのかわからない場合は,「統合化による説明」となる.
言語外的な視点の不可能性は、形而上学的実在論を神の視点からの議論として攻撃するパトナムらの内的実在論を支える重要な議論である。また、言語で言語を研究する言語の哲学にとって、この問題は無視することのできない方法
従来、前期ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考(『論考』)』の意味論的な議論は、形而上学的実在論の典型と解されてきた。これに対して近年、それをむしろ言語外的な視点への誘惑を断ち切ろうとした(と、しばしば解される)『哲学探求』に近い立場であるとする有力な「新しい」解釈が現れ、論議を呼んでいる。
本発表では、『論考』に関するこの見解を検討しつつ、言語外的視点の可能性という問題に対する前期ウィトゲンシュタインの議論を再構成する。論点として特に、言語理解の主体としての「私」をめぐるウィトゲンシュタインの議論と、哲学的概念の変項への置き換えというフレーゲから引き継いだとされる戦略を取り上げたい。
筆者の考えでは、『論考』のウィトゲンシュタインは、言語外的な視点を言語内的な視点から厳密に区別しようとしており、このいみでは言語外的な視点をナイーブに取ろうとする形而上学的実在論の立場とは区別される。だが、「新しい」解釈がそう主張するように、そのような言語外的視点自体を否定はしておらず、微妙なスタンスで言語外の視点を残そうとしているように思われ る。本発表では、そのような『論考』の議論を、一つの可能な立場として描き出したい。
本書の要約は、序論に述べられているので、これを参考にしていただきたい。本発表では、本書が示そうとしている方向性を際立たせてみたい。以下の点について、短く説明する予定である:
中山康雄著『共同性の現代哲学』は「心から社会へいたる道」を示すことを 目標としながらも、四つの部分から成り、それぞれある程度独立した内容を持つものとして読むことができる。私のコメントはもっぱら第一部「心と行為」に関わることになる(私自身の関心と能力の限界のため)。
第一部は二つの章から成り、全体としては心の実在性がテーマになっているように見えるが、このテーマ自体は共同性などのテーマとは独立の意義を持つものである。しかし私の印象では、心の実在性をそれ独自のテーマとして著者の見解を提示・論拠付けることにより、共同性などを論じるための足がかりとしているのではなく、むしろ共同性などについて論じる必要性から、共同性が成り立つために必要な心の特性や態度帰属の実践のあり方が列挙されているだけのように思われる。
もちろん、そのような作業はそれ自体の価値を持つだろうが、それが心の実在性という形而上学的なテーマにどう関係するのかが必ずしも明確ではない。大まかにはそのような印象を受けたが、そのあたりのことについて著者の意図などを明らかにしていただければと思う。
知識、とりわけ科学的知識を理解する上で、科学者共同体の分析の重要性が増していることは多くの人が認めるところである。しかし、社会学的な手法を認識論や科学哲学にどう取り込むかについては未だ手探りが続いている状態である。本発表では、近著『認識論を社会化する』で紹介したさまざまな取り組みを概観し、認識論の社会化の可能性と、今後の課題について考えて行く。
ペアノは彼の自然数の集合に関して数学的帰納法が適用できることを、公理として要請した。それに対してデデキントやフレーゲは、数学的帰納法が彼らの体系で成り立つことを、それぞれの数の定義から導出した。本発表では、彼らがこれを行なうために、どんな前提を持ち込んでいるかということを明らかにし、その前提が、もし可能であるならば、どのように正当化されうるかということを考察したい。
クワインの観察文とは我々の信念体系と世界とが接する唯一の部分であり、それゆえクワインの認識論にとって非常に重要な位置を占めている。観察文がそのような役割を持つのは、クワインが観察文を一定範囲の刺激と直接結びついている文であるとしたからである。しかしながらデイヴィドソンは、クワインが観察文と刺激が直接結びついていると言う場合、「刺激」という用語を、認識主体の「体表刺激」という意味で使っているところと、フィールド言語学者とインフォーマントが共有する刺激を与える「対象」という意味で使っているところが混在していると批判する。さらにデイヴィドソンは、観察文はそうした「対象」とのみ結びついているのであって、認識主体に自覚的でない体表刺激を観察文の証拠とみなすことは懐疑論を引き起こすと主張した。こうした批判を受けた後、クワインはこれら二つの意味での刺激を明確に区別するようになり、意味論においてフィールド言語学者とインフォーマントが共有している「対象」の重要性を強調するようになったものの、あくまで体表刺激の重要性を主張しつづける。こうした両者の違いは、認識主体の認識について考える際に、認識主体の立場から考えるのか(デイヴィドソン)、認識主体とは別の認識論者の立場から考えるのか(クワイン)という違いに起因すると思われる。しかしながらこの違いを単にクワインの立場がデイヴィドソンの立場を包括しているというように理解することはできない。なぜなら、デイヴィドソンの批判は、認識主体が知りえない立場から認識主体の認識が保証されているなら、これはまさしく懐疑論を引き起こしかねない、というものだからである。本発表ではこうした両者の立場の違いに留意しつつ、なぜクワインは認識論者の視点から認識主体の認識について解明しようとしたのかについての検討を通して、クワインの認識論の意義と射程を明らかにしたい。
第一・第二性質の区別に関する問題を、ディスポジションに関する哲学的議論と関連付けながら探究する。物理的事物の持つ知覚可能な性質のうち、物理的事物がそれ自体で持つカテゴリカルな性質(Lockeが挙げる例によると、形、大きさ、運動、固性など)を第一とし、特定の知覚者との関係において持つディスポジショナルな性質(色、音、温かさ、味、においなど)を第二とする分類法が古くから存在する。その区別に関する問題の一つは、それが存在論的に本質的な区別を反映しているのか、それとも単に認識論的な次元での区別に過ぎないのか、ということである。私は、ある意味でそれは存在論的ないし形而上学的な区別を反映しており、第二性質がなぜ必要であるのかもそれによって説明されると考えている。そのことについて、ディスポジションに関する最近の議論(特にC.B. MartinやJohn Heilなど)と関連付けながら論じたい。
起こされる変化を記述することは、一見したところ、矛盾しあう性質を同一の対象へ帰属することを要求する。これを回避する唯一の方法は、時間とともに移り変わる性質は、対象そのものではなく、対象の時間的部分に帰属することだとされる――つま
この問題では変化の概念が重要な役割を果たしている。本発表では、特に「本当の」ないし「真性の」変化について考察することによって、Lewis 同様、四次元的対象を導入して時間的内在的性質の問題に対処する路線を擁護する。
しかしながら、この路線の最大の問題点は、四次元的対象そのものへの疑問が少なくないことである。そこで、この問題点を解消するひとつの方策として、時間の現在主義の要素を取り入れることを試みる。また、このような立場は、「本当の」変化について、従来の Lewis のような立場よりも直観となじみやすい説明を与えることがで
『論理哲学論考』(以下『論考』)冒頭部でウィトゲンシュタインが提示する存在論は、解釈者たちの間に多くの議論を引き起こしてきた。とりわけ、基礎的な存在者である「対象」に関しては、そのステータスがいかなるものであるかについて、互いに相容れない様々な解釈が提出されている。
そこで本発表では第一に、諸解釈の検討を通して、『論考』における「対象」の本性を明らかにすることを試みる。「対象」の本性を正しく把握することが、『論考』の存在論の理解にとって肝要であると考えるからである。
次に本発表の第二の目的は、上で明らかにした『論考』の存在論と、自我との関わりを見通すことである。「世界は私の世界である」というウィトゲンシュタインの独我論において、自我はどのような仕方で世界を限界付けるのか。何故「貫徹された独我論が純粋な実在論と一致する」のか。この問いに答えることはまた、『論考』序文で述べられているこの書物の目的、すなわち語りうるものの領域を限界付けるという目的が、どのように達成されるかを明らかにすることでもある。というのも、ウィトゲンシュタインによれば「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」からである。
A. N. プライアーが 1950 年代に提案した時制論理とは, 時制表現のもつ論理的性質を扱う様相論理学の一分野である. 彼の最も単純な言語では, 過去時制「…だった」,未来時制「…だろう」に対応する二つの演算子が導入され, 演算子を入れ子にすることで複雑な時制表現を扱うことが可能となった. その後, 60 年代に, クリプキの可能世界意味論を応用して時制論理のためのモデル理論が与えられて以来, 探求されてきた問題の一つに, 時制論理式は時間構造のどのような性質を表現しうるのか, という問題が存在する. 多くの論者は, 論理式の妥当性を不変に保つ, 時間構造のクラス上の演算を考慮することで, この問題へ取り組んできた.その結果, 明らかとなったのは, 時間が決して止まらないことを意味する, 時間順序の非反射性の条件がプライアーの言語では表現できないという事態である. しかし,この非反射性は, 時間構造に課されることが多い条件である上に, 時間順序を二項関係として加えた一階述語論理ではたやすく表現できる. だから, この事態は, 時制論理の表現力の弱さを示す事例だと考えられてきた.
本発表では, まず時制論理の表現力を扱う枠組みについて解説する. 次に, 上に挙げた時制論理の表現力の弱さを補うために提案された, ブラックバーンの新たな種の命題変数を加える試みやデ・レイケの新たな様相演算子を加える試みを概観したい. その後, デ・レイケの演算子に, 非反射性の表現が可能な, より弱い解釈を与えることを提案し, 既存の言語とその表現力を比較したい. 最後に, 幾つかの公理系を提示し, その公理系での定理の概念と, 提案した解釈での妥当性の概念とが等価となることを示す.
機能概念や機能的説明の使用は、生物学や社会科学と物理学の大きな相違点のひとつと考えられてきた。また、そうしたものとして、機能や機能的説明は科学哲学の中で特別な注意を向けられてきた。生物学者は機能についての言明、例えば「心臓の機能は血液を循環させることである」といった言明を頻繁に用いるし、機能を用いてある器官や形質の存在を説明すること(機能的説明)も非常に一般的である(「なぜ心臓はある?」「血液を循環させるため」)[機能的説明が何を説明するのかについては議論があるが、ここではこうしておく]。しかし、物理学には機能概念や機能的説明は見られないと考えられている。また、説明についての一般的な枠組みであった被覆法則モデルに機能的説明はうまく収まらない(Hempel 1959[1994])。こうしたことから、機能やそれを用いた機能的説明とは何かについて、長い間議論が行なわれてきた。
現在の科学哲学において、境界設定問題はあたかも過去の実証主義的科学哲学の時代の遺物であるかのように扱われている。特に、現実の科学のあり方に即した科学哲学をめざす自然主義的潮流においてはその傾向がつよい。本発表においては、近著『疑似科学と科学の哲学』でとりあげた事例の考察を通して、疑似科学と科学の関わりを考えることが現在の科学哲学においても(自然主義的な科学哲学を進める上ですら)重要であるということを論じる。
科学的実在論についての発表をする.ここで,科学的実在論とは,科学理論において要請されるが,直接観察が不可能であるような対象(原子であるとか,中間子,重力場など)の実在を認める立場である. 本発表では,科学的反実在論者の主な論拠を検討しつつ,科学的実在論について考察したい.
複数の異なる理論的対象を要請するが経験的には等価な,つまりその理論から導かれる検証可能(もしくは反証可能)命題の検証結果がすべて同一であるような理論は区別できない.
共約不可能性によって,理論間の選択基準が相対的なものになり,そのゆえに,もしも,それらの理論間で異なる理論的対象を要請していたならば,その実在は,客観的なものではありえない.
経験的に等価な複数の異なる理論は区別できないのだから,それぞれが要請する理論的対象のうち,いずれが真であるとも言えない.つまり,理論的対象の実在は客観的なものではありえない.
科学理論は経験的に十全であればよいのだから,われわれは,いま受け入れている科学理論を真であるとして受け取らなくてもよい.すなわち,その理論により要請される微視的対象も道具的な役割しかない.
1 については,近代科学が数学的に体系化されていることに着目して,共約不可能性が存在しないことを議論する.このとき,数学的体系化によって,共約不可能性からは逃れえても,反実在論的な立場―道具主義的な立場―がむしろ強くなってしまうことについても,考察する.
2 については,直接観測可能な対象と不可能な対象との区別を認めながらも,しかし,やはり,巨視的対象の実在に対する議論と微視的対象の実在に対する議論は連続的であることを示す.

 

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