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易くとは?/ マイワン

[ 15] 心揺々として戸惑ひ易く
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/inmymemory/

日本に於いて、こんにちの「詩」という言葉は元来、漢詩を意味していた。1882年に官学者の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎が『新体詩抄』を啓蒙の一端として出版したものが、近代詩のはじまりである。こうして「新体詩」とよばれる新しい韻律の試みが盛行しはじめる。
近代的な詩精神と感受性に於いて、小説史上での坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』に相当する最初の成果が1889年の北村透谷の『楚因之詩』及び同年の森鷗外ら新声社による訳詩集『於母影』である。しかし、近代小説の生誕を明確に告知した二葉亭四迷『浮雲』に相当するような近代詩を完全に具現する作品の誕生までには、1897年の島崎藤村『若菜集』を待たなければならなかった。七五調を中心とする新体詩形式の拘束とそれに対応する古風な詩語とによってのみ、はじめて自由に流露することのできる極めて日本独自な近代精神の詩的定着が行われる。
さらに、薄田泣菫や蒲原有明によって詩的彫琢が第二段階へと進められた。泣菫はイメージの組み合わせが豊富で、八六調の絶句体や古語雅言の駆使をはじめとする韻律の実験を種々試みた。有明は西欧の象徴主義を新意匠として技法的に移植し、感覚と想念との絡み合いの中に独自な世界観を形成した。この象徴詩については技法としてのみに留まり内面的な烈しさのない中では、三木露風『白き手の猟人』を除いては日本での成果はみられなかった。
1906年頃から日本近代文学に萌芽した自然主義によって、新体詩は実生活遊離であるとする批判の対象となる。しかし、世はまさに大日本帝国主義が進められ、社会的重圧の中で私小説的自然主義は長谷川天渓の「現実暴露の悲哀」という表現に代表されるように、主観による虚偽を否定し現実をありのままに認識することで、個の主体性が失われるという苦悩を産み出した。これに対し、主観的に打開しようとする人道主義的傾向、または唯美派や享楽主義への屈折、退廃(デカダンス)へと傾倒する動きも現れ、権力への抵抗と官能や感覚の耽美的追求の中に自我の生命感の充足を見出そうと強烈に固執する反自然主義的傾向の中に近代詩の発展はみられることになる。デカダンの詩では高村光太郎『道程』、金子光晴『鬼の児の唄』という傑作が生まれた。光太郎が軍国主義に乗じていったのに対し、社会主義に自己をつきつめていった石川啄木にも『呼子と口笛』が生まれる。
その後、佐藤春夫は新体詩とは全く違う手法で古語を駆使した抒情詩を書いた。1916年には室生犀星と萩原朔太郎が中心となり雑誌『感情』が創刊さる。そこで発表された詩的内容の成熟により、口語体自由詩がようやくはじめて芸術的に優れた形式として実現された。
*6:「日本の新体詩はまだ発達して居ない。第一その詩形が定まらない。七五と言い五七と言うこれまでの体裁では、今の世の人の思想感情を細かに憾みなく歌うことは難い」と考えた上田敏は、7・5を4・3・3・2の単位に分け、それを様々に組み合わせて新しい韻律を作ったことが最大の功績であろう。また、古語、雅言を多用したことで作品の端的な理解を妨げているとの批判もあるものの、国文学の素養に深さゆえ、日本の詩語を比類なく豊かに用い、この清新の趣味を失わずして、しかも美しいこなれた日本語にするという困難な試みに、当時としては完璧な領域にまで成功させ、新しい道を拓いた功績はあまりにも偉大である。また、第二の功績は、本国フランスでさえ正当に評価されていなかったマラルメやヴェルレーヌらフランス象徴詩を独自の見識をもって採り上げ、はじめて日本に紹介したことからも、彼の鑑識眼の高さが窺える。
*8:『海潮音』の絶唱 「仏蘭西の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具え、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝え、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉えんとす」(上田敏)
*12:「西詩の余香をわが文壇に移し伝えようと欲するよりも、寧ろこの事によって、私は自家の感情と文辞とを洗練せしむる助けになそうと思ったのである」(永井荷風)
*26:「ポール・フォールほど新鮮な感興と、自然で絵画的なイメージと、音楽的で簡素な文体をもっている作家は存在しない。彼はフランスのバラードのホメロスであり、われらの世紀のラ・フォンテーヌである」(ストロウスキー)
*27:「遺稿の散文詩『夜のガスパール』は微妙なリズムをもち、ボードレールがこの書を読んで大いに啓発されたことは有名である。詩のあるものにはロマン派の一特色である怪奇趣味がみなぎり、ネルヴァルの詩と共に幻想的ジャンルの開拓に寄与している一方、他の多くの詩編には絵画的要素が濃く、ロマン派に続く高踏派が行った造形美追究に先駆するものと評価されている」(伊吹武彦)
*33:「これはジャン・コクトーの『カンヌ』と題する詩の一小節だが、意味からいっても、イマージュからいっても、完全に、二重三重に反射し合って、建築術の所謂せりもちの方法で構成された短詩の賞嘆すべきレユシット(成功)だ」(堀口大学)
*34:「彼ほど私に影響した文人は他にない」「グールモンの著作物は、巴里へ行ってみても、古本屋の店頭には極めて稀にしか見当たらない。理由は、読者が、そこから汲み取る知的快楽の質が如何にも珍貴なので、読後も身辺に保存し、永く心の糧にしようとするからだ。グールモンの著書は、対角線に読むことも、電車の中で読むことも不可能だ。それは静閑と集中力とを要求する。グールモンの一句一句は、おみくじだ。中を開いて見なければいけない。中には必ず何ものかしまってある」(堀口大学)
*35:広く朗誦された。「ここに、象徴派の第二世代の中で最も変り種の人物、最も天真爛漫で、最も多彩で、最も豊饒な詩がある」(レミ・グールモン)、「ポール・フォールの『フランスのバラード』は典型的な作品としていつまでも残るであろう。それは様々のイメージと思想の広範なレパートリーを提供している。そこには独自の豊かさと、力強い生命力のあることを強調しなくてはならない」(アンリ・ド・レニエ)、「ポール・フォールほど光り輝く、純粋なフランスの詩人は他にいない。彼はやがて古典になるであろう」(ロマン・ロラン)
*37:「『夜のガスパール』の中で、やがて魔法の泉を作り出す極めて細かい雨の一滴が手に落ちるのを感じるためには、長い間手を差し伸べなくてはならぬ。しかしそんなことはちっとも構わない」(アンドレ・ブルトン)
*38:「わが文学史に、これほど隠密に音楽的な、そしてその個人的な力の根源がこれ以上密接にフランス語そのものに拠っている詩の例は多分ないであろう」(アンドレ・ジイド)
*39:「見事に書かれた作品の中でも、むさぼり読まれるものと、味わって読まれるものとがある。『東方所観』のような本は味わって読むべき本、ゆっくりと読むべき本である。かくも完璧な、かくも成熟した、かくも効果のあるわれらの国語が自らを示し、勝利を得ているあらゆる作品と同じく、クローデルの散文作品は簡略すぎる接触を拒否し、早急な考察を失望させる。・・・この本の中では、単語が句の中に、句は詩の中に、極めて正確に、また厳密に詰め込まれているために、その中からなにかを取り除けることが、また付け加えることができようとは一瞬間も読者は考えない」「彼は我々の中に予めあった空虚を充たしてくれる。そこには必要とする以上の言葉はひとつもない。それぞれの言葉はなにかを言う為に呼び出され、それぞれの言葉は何かを言おうとし、そしてそれを言っている」(ジョルジュ・デュアメル)
*42:「この詩人の作品は内容形式共に夥しい個性を持っていて、現代驚異のひとつだ。彼は平凡なありふれた物体から、破天荒なヴィジョンを引き出してくる。そのファンテジイの奔放自在なことはほとんど狂気の幻想に近い。彼の作品は如何なる前衛詩人にも劣らないほど進歩しているが、しかも決して不可解に陥ることをしない」(堀口大学)
*43:「彼ほど直接に感情に語りかける、また迅速に力強く共感と共鳴を呼び覚ます詩人を他に知らない。彼が愛について、苦悩について、死について語るときには、この詩人は、我々の内部にある情念の基本的なエネルギーに訴える。したがって彼の場合には、誰にもまして、註釈が余計でかつ馬鹿げているのみならず、それは冒涜でさえある」「最も美しい詩というのは、その形式と思想に於いて決定的に定着したものではなく、それを読む人の内部で無数の形を取り、無数の意味を帯びることを可能にするものである。詩の至高の目的は、それをきく人々をある種の度合に於いて詩人にすることにある。詩が、それをきく人の心と頭脳の中で別の詩になる度合が多ければ多いほど、その詩のもつ生命力と効果が証明されるのである」(マルセル・ブリオン)
*44:「その詩は、端的、新奇、正確、尖鋭、シュルレアリズムの意想を最もよくその作品に成就して、せっかちなそして消えやすい言葉の組み合わせ捉え難きを捉え、定着し難きを定着させる。勿論この近代詩の革新者の作品に旧来の詩法を適用したりしてその放埓に驚いてはいけない。彼の言葉には、速記の文字として、主題の自動的表情として、直接人の皮膚に呼びかける特異の力がある。意想と感覚、この二つのものに同時に芸術的法悦感を与えるのが、エリュアールの詩だ。この瑞々しい結晶体のような詩は、作者の人間らしい心臓の温かさを隠しているので、一層美しい」(堀口大学)
しかも、主題歌の発注を受けた大瀧詠一が「お互いに惹かれあっているのに、内なる気持ちを、素直に好きと言い表せないことが恋の障害」というドラマのコンセプトから「True love never runs smoothみたいな感じの曲をイメージした」と語ったのをそのまま採用したとのこと。*1たしかに主人公のふたりのすれ違いの連続は、真の恋の道筋が決して平坦ではないことを体現していた。だからこそ観る者は一層、「幸せな結末」の歌詞に希望と慰めを与えられ、感動を呼んだ。*2最終回では勿論、運命の赤い糸で結ばれたふたりは、幸せな結末を迎える。
とはいえ、(中盤以降は泣き通しで「こんな切ない展開観た事ない」と絶賛していたのだが)、あまりに棚ぼたなハッピーエンドで迎えた大団円に拍子抜けしてしまった。これはテレビの視聴者が求めるファンタジーであって、リアリティを求めてはいけないのだろう。
なぜラブジェネの中盤が感動的であったかといえば、ひとえに松たかこ演じる理子の「情熱的な想い」に尽きる。彼女の涙に僕は何度も、「切ない」という言葉には「つらくやるせない」だけではなく、「深く心を寄せている」という意味もあるということを思い出させてくれた。木村拓哉演じる哲平の仕事熱心さも、この切なさを倍増させるための設定であるようさえ思える。おそらく公開当時はツンデレという概念すら存在していなかったと思うが、理子は紛れもないツンデレキャラの最高峰だ。会っている間は「半径2メートル!」など憎まれ口ばかりなのに、“ひとりでいるとき、どれほど自分のことを想っていてくれているのか”を垣間見る思いがしたとき、人は恋に落ちるのではないだろうか。その意味で、理子のマジックは最高級のプレゼンテーションだ。想いの強さは千通のメールよりも伝わることだろう。
そして、このドラマの重要な鍵は“愛の深さと不安が比例する”心理だ。恋人に浮気された経験がある人ならこの気持ちは分かるだろう。“大好きでしかたないのに、信じたくても信じれない自分が嫌いになったから、別れる”シークエンスに、幾度となく滂沱の涙を流した。愛しているなら信頼していたいのにできない。それがどれほど苦渋に満ちたことなのか。それを知る者なら、いつか失い傷つくのではないかという恐怖と、それでもどうしても諦めたくない自分の想いの強さの狭間で、苦しくて苦しくて、ただ堪え切れずに涙が後から後から零れ落ちるのを拭うだけの毎日から解放されるために別れを決断する悲しみはいかばかりか分かるだろう。11年前ではなく、あれこれ潜り抜けてきた今、このドラマを観ることに大いに意義を感じる。「とかく恋路はままならぬ」。だからこそ、恋する切なさは美しい。
*1:驚いたのはそれだけではない。ポスター(デザインは信藤三雄)のモデル、市川実和子は後に「Pinup Girl」というアルバムを出したが、大瀧詠一がサウンド・プロデュースを担当し、「ポップスター」「雨のマルセイユ」の2曲を提供している。きっかけは、市川が「あの主題歌歌ってる大瀧さんっていいですね。私のデビュー曲書いてもらえないですか?」って言ったところ、本当に交渉して実現したらしい。どれほど長い間、ナイアガラ信者が彼の新作発売を待望していることか。それをあっさりと・・・。知らないとはなんとすごいことだろう。
*1:余談だが、家族構成の話題になった際、これまで尋ねた全員が「妹いるでしょ?」と断言され続けている。欲しいと思い続けているのは間違いないのだが
創作は一切含んでいない。以下は全て事実だ。俺は小さい頃に親から押入れの下の段に押し込められて育てられて、便所であれ飯であれ少しでも俺が外に出るような素振りを見せると、親は俺が動かなくなるまで、嘔吐しようが骨折しようが暴行を加え続けた。これが物心付いた頃から中学まで続いていた。
高校生の頃、居場所の無い僕は近所にあるゲームセンターが併設されたボーリングセンターによく行った。
渋谷系アーティスト達の音楽の原点、トミー・リピューマ&アル・シュミット、ロジャー・ニコルズ&ポール・ウィリアムス

 

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